しあわせみんな 三号店

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原則その⑤ 科学者は「異論」を認める

原則その⑤ 科学者は「異論」を認める 信じられる科学者かそうでないかを判断をする上で、何か議論をしているとき、「すぐカッとなる」ような人は科学者らしくない、すなわち信用できないということが言えます。 印象論的に感じるかもしれませんが、これはその人が科学的にものを考えているか、科学的に考えていないかということがわかるリトマス紙です。実は、科学者は一般の人とはカッとくるタイミングや内容が違うのです。 科学者でない人は、自分が信じていることと違うことを言われたりしたときにカッとくることが多いでしょう。ところが、科学者というのはここまでに記してきたように、自分が信じていることが「ない」のです。科学における結論はデータによって変わってきますから、対象物に対しての個人的な信念とかそういうものはありません。 これが、第5原則「科学者は異論を認める」です。 では、科学者はどんなときにカッくるのでしょうか。それは相手が何か裏でたくらんでいたり、こちらを説き伏せようとしたり、ウソを言ったり、論理的に矛盾することを言われたときにカッとくるのです。科学者は必ずそうなのです。 科学者は常にデータに対して正直に、真面目に取り組もうとしています。そのときには自分というものを捨て、データに忠実に従おうと考えます。ところが、世の中はそうではありません。世の中というものは残念ながら、他者を願したり、引っ掛けようとしたりということが多いわけです。 一般社会では、そもそも論理的に考えなくとも通用することが多く、常に感情のままに会話をするような人もたくさんいます。 そういう人たちと相対したときに科学者の心の中はどう動くかというと、「せっかく正直にデータを真正面から見て、それについて頭を絞って議論をしようとしているのに、なぜこの人はデータに基づいた話をしないのか。何か自分の都合でこちらを説得しようとしているのではないか。私を蝙して何かしらの利益を得ようとしているのではないか……」と、こう思う。そして、「この人とは議論をする意味がない 」となるわけです。 いわゆる文系の人の行動をじっとみていますと、何が真実かということをあまり 重要視しないように感じられることがよくあります。真実よりも「自分はどうしたら得をするか」「自分の考えをどうしたらみんなに信用させることができるか」という、科学者的な考え方とはまったく別の見方をしているように思うことがあるのです。 それが悪いというわけではありません。世の中をみるときに、文系の人はどちらかというと「この世の中にはいろいろな事実がある。科学的なこともいろいろある。しかし、現実社会はそんなことで左右されているわけではなく、人間関係であるとか、損得勘定や騒し合いなどによって成り立っている」と、考えている人が多いのではないでしょうか。 しかし、科学者はこうした考え方をしません。できるだけこの世の中をデータでみて、正確にみたそのままを議論する。一人ひとりの意見は違っても、そうすることで十分にコミュニケーシ ョンは取れる、と考える。 事実を明らかにするということはとても大変なことです。それだけでも精いっばいなのに、その上にウソや蝙しだとか、どっちが有利とか、そういうことまで考え出したらとてもやり切れないと、こういう気持ちに科学者はなるのです。 以上が、科学者がカッとくるときの状態です。 ですから、科学的事実に対して意見が異なるとき、科学者はカッとなりません 。 たとえば、一 つのデータがあったときにそれに対する読み方が異なるということでカッとくるのであれば、それは科学者としては信用できません。先に記したように、科学というのはデータによって自分の考えを変えなければいけないという性質を持っていますから、データを基にした議論においてカッとくるのであったなら、その人は本物の科学者ではない。 逆に科学者でない人は、自論自説の補強のためにデータを利用したいと考えますから、議論の相手がそれと異なることを言ったときには、それがいかに理論として正しくても聞く耳を持たずにカッとし始めます。 こういった点も、「真実を見分ける」もしくは「似非科学的な内容で蝙されない」ためには極めて重要なことなのです。 『フェイクニュースを見破る 武器としての理系思考』武田邦彦 (ビジネス社刊) R060522 P046