しあわせみんな 三号店

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「環境にやさしい」というレッテルさえあれば安心してしまう心理 リサイクルは間違いだ

「環境にやさしい」というレッテルさえあれば安心してしまう心理 リサイクルは間違いだ もちろん、「グリーン」という名前をつけたり、「グリーン」というラベルを貼れば、たちまちそれが「環境にやさしい商品」に 変身するわけではありません。それでは(子供には失礼ですが)、「子供だまし」です。まるで、「変身棒」というのがあって、それで「変身!」と叫ぶとそれだけで変わるというのと似ています。 「レッテル主義」と呼んだらよいのでしょうか。 「エコ」「グリーン」「省エネ」「自然エネルギー」というようなレッテルを貼ると、霊験あらたかに、その商品が「環境に良い」ということになります。たとえ、それが三倍も資源を使い空気を汚しゴミを増やしても、レッテルさえ貼れば環境に良くなるのです。 このような「レッテル主義」は今に始まったことではありません。歴史的にも多くの経験をしていますし、二〇世紀にも、時に大々的にレッテル主義がおこり、多くの人が不当に差別をされ、 ひどい場合には大量虐殺の原因を作ったりしました。現在は真心のこもった、美しいはずの 環境」がレッテルで汚されているのです。 「自然エネルギーは環境にやさしい」というレッテルは「自然エネルギーだから環境に厳しい」に代えなければなりませんし、「エコ商品」や「グリーン商品」というラベルが貼ってある商品を「汚染増大商品」というラベルに貼りかえるとどのように感じるでしょうか。 わたしたちは、もしかすると、多くのものをレッテルだけで判断していないでしょうか? ところでもう一歩踏み込んで考えてみると、環境に悪いものに「グリーン」とつける「グリーン購入」に対する政府のやり方は不可解に見えますが、そうでもないのです。実はここに政府の悩みがあるのです。二〇世紀から二一世紀への変わり目に「ミレニアム」と言ってみんなで、ひと騒ぎしました。西暦が“一” から始まる時代が終わり、“二” から始まるのですから、暦の上では大きな変化です。 実は、単に数字が“一”二から“二”に変わっただけではなく、生産が「不足」から「過剰」へと変わり、社会の要求もそれに伴って「もの重視」から「こころ重視」へとかわってきています。科学も三〇〇年前にニュートンが「未知の海原が目の前に拡がっている」と言ったように、人類の目の前には、まだ探検すべき大海が拡がっていました。そういう状態のなかで、新発見がつぎつぎと生まれる時代が終わり、これからは、科学的発見を人類のために貢献する技術を探索する時代になりました。 このような変化はあまりにも大きいので、政府もその対応ができないでいると考えられます。これまでは「一所懸命働き、少しでも多くの物を作ることが社会に貢献することだ」ということを誰もが疑いませんでした。それほど明確だった道徳も、すでに過去のものになっています。今は、「自分の満足のいくように働き、決して物を多く作ってはいけない」ということが求められます。 これまでは「できるだけ若いうちに結婚して、子孫を増やし、末広がりがめでたい」ということを誰もが疑いませんでした。これもすでに過去の考えになっています。地球の人口は六〇億人を突破し、日本も来るべき資源枯渇の時代には数千万人まで人口が減らなければなりません。まるで、一八〇度の急転回です。 本来、このように激しく時代が変化するときには専門家が活躍すべきでしょう。専門家は社会と少し離れたところにいて、社会の動きを冷静に見ることができる立場にあります。しかも、変化を適切に映しだす任務を負っているのです。 しかし、様々な要因があって、現代の専門家は社会の仕組みのなかで動きがとれなくなっています。利害関係は複雑に絡み、そのなかで架空の人生を送っているからです。 結局、自由な立場の個人が最も時代の変化に対応する必要性があり、かつ柔軟に変化を追従していくこともできる存在ではないかと思います。著者は先に『「リサイクル」してはいけない』(青春出版社)という本を出しましたが、このときにも同じ状況でした。リサイクルが環境に悪いことは専門家が計算すればすぐ判るのに、それを指摘せず、政府も旧来の思想に縛られてリサイクルを推進しました。 その破綻は一年も経たないうちに、目に見えてきましたが、リサイクルに一番早く疑問を持ったのは、立場も経緯も利害関係もない普通の人だったのです。何もとらわれないこころが正しく事実を見て、将来を考えることができることを経験したのです。 『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊) 20231102  102