しあわせみんな 三号店

日本人は太古の昔から「しあわせみんな」という素晴らしい知恵をもって生きてきました

十八 男と鏡

十八 男と鏡 前にも言ったように、道徳がもし外面的に重視されるべきものならば、その外面の代表は敵であり、また鏡である。自分を注視して、自分を批判するものは、敵でありまた鏡である。女にとっての鏡は化粧の道具であるが、男にとっての鏡は反省の材料であった。「葉隠」は外而的道徳を主張する当然の結果として、鏡にもまた言及する。 「風体の修業は、不断鏡を見て直したるがよし。十三歳の時、髪を御立てさせなされ候について、一年ばかり引き入り居り候。一門共兼々申し候は、『 利発なる面にて候間、やがて仕損じ申すべく候。殿様別けて御嫌ひなさるるが、利発めき候者にて候』と申し候について、この節顔付仕直し申すべしと存じ立ち、不断鏡にて仕直し、一年過ぎて出で候へば、虚労下地と皆人申し候。これが奉公の基(もとゐ)かと存じ候。利発を面に出し候者は、諸人請け取り申さず候。ゆりすわりて、しかとしたる所のなくては、風体宜しからざるなり。うやうやしく、にがみありて、調子静かなるがよし。」(聞書第一 一三七頁) 自分の顔が利発すぎるというので、鏡を見てはとうとう直しおおせたというのはふしぎな例であるが、「葉隠」がここに言っている人間の、あるいは男の顔の理想的な姿、「うやうやしく、にがみありて、調子静かなる」というのは、そのまま一種の男性美学といえる。「うやうやしく」には男の顔にあるところの、人を信頼させる恭謙な態度が要請されており、「にがみ」にはこれと反対に、一歩も寄せつけぬ威厳が暗示されており、しかも、この二つの相反する要素を包むものとして、静かな、ものに動じない落ちつきが要求されている。 『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫)   20240813  P59