二十 死狂い 前項の思想による欺瞞をもっともまぬがれた極致にあるものは、忠も孝も、あらゆる理念もいらない純枠行動の爆発の姿である。常朝はたんにファナチシズムを容認するのではないしかし行動が純粋形態をとったときに、おのずからその中に忠と孝とが含まれてくるという形を、もっとも理想としている。行動にとっては、自分の行動がおのずから忠と孝とをこもらせることになるかどうかは、子測のつくことではない。しかし、人間の行動は予測のつくことに向かってばかり発揮されるものではない。それが「武士道は死狂ひなり」という次のような一句である。 「『武士道は死狂ひなり。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの。』と、直茂公仰せられ候。本気にては大業はならず。気運ひになりて死狂ひするまでなり。又武士道に於て分別出来れば、はや後るるなり。忠も孝も入らず、武士道に於ては死狂ひなり。この内に忠孝はおのづから籠るべし。」(聞書第一 一四〇頁 ) この反理性主義、反理知主義には、もっとも危険なものが含まれている。しかし、理性主義、理知主義の最大の欠点は、危険に対して身を挺しないことである。もし、理知が自目の行動の中におのずから備わるならば、また、もし理性があたかも自然の本能のように、盲目な行動のうちにおのずから原動力として働くならば、それこそは人間の行動のもっとも理想的な姿であろう。この一行、この一項の「この内に忠孝はおのつから籠るべし 。」という一行は、はなはだ重要である。なぜなら、「葉隠」は単なるファナチシズムでなくて、また単なる反知性主義ではなくて、純粋行動自体の予定調和というものを信じているからである。 『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫) 20240815 P61