地雷排斥運動よりもっとほかに…… その一つの例が「地雷排斥運動」です。 手榴弾(しゆりゆうだん)や地雷のような小型の爆弾の場合は、脚や手をもぎとられます。それを見るといかにも残酷ですから、平和運動に関心のある人や、こころのやさしい人たちが「地雷をなくす運動」をおこします。たしかに、地雷の被害に遭い片足をもぎとられた子供を見ると可哀想でなりません。一刻も早く、その子供たちを救い、幸福な人生をと願います。 「部分的」にはまったく正しいのです。 しかし、わたしたちは同時に、全体のことも考えなければならないでしょう。 地球上にはあの八月六日の広島に落とされたものと同じ原子爆弾が一万発分以上もあります。第二次世界大戦後の人類は、一つの狂気に支配されてしまいました。そして、たった一発の原子爆弾でも極悪非道なのに、その原子爆弾を一万発分も作ってしまったのです。そして、冷戦の終わった今でも、膨大な数の爆弾は、いつでも使える状態でわたしたちの頭上を脅かしているのです。 それでも、そして日本はこの極悪非道な兵器の被害を受けた世界で唯一の国であるにもかかわらず、廃棄運動はそれほど盛り上がりません。もう一度、強調したいのですが、「広島に落ちた原子爆弾と同じ威力の爆弾が一万発分以上」世界にあるのです。ひとたび戦争が起きたり、戦争にはならなくても何かの間違いでそのうちの一つでも炸裂したら、その悲惨さは地雷どころではありません。 「地雷排斥運動」が悪いということはありません。そして、「地雷」の悲惨さにこころを痛めるのは当然です。しかし、それより命や 環境を大事にするときには、「目に見えるものだけに注目する」というのでは限界があります。 もし、本当に地球の環境というものに強い関心を持つとすれば、地球上の人間が何回も殺される兵器がある、ということが大きな汚染源として感じられると思うのです。それと同時に、わたしたちの周辺にあるゴミや、毒性のある物質が漏れる廃棄物貯蔵所よりなにより、大量の核爆弾の存在が気になってしかたがないはずです。 「環境」は「全体」であり、「調和」です。一見して善いこと、現境に良い活動のように見えるものが、実は環境全体に痛手をおよぼしていることも多く見られます。つまり、善意が、かえって社会全体として、命を軽視したり、本当の環境問題を隠すことになっていたら残念です。 環境問題への取り組みでは、「まず、自分でできることから」、「市民としてできること」と言われます。そのような考え方や行動は、「地球環境を守りたい!」という善意からスタートしてはいますが、危険な側面を持っています。それは、「部分的な正しさ」を求めるあまり、その本来の目的である「環境」を壊すことが多いからです。 全体を見る目を失い、冷凍食品や空中の就寝がわたしたちの感覚を失わせ、矛盾に気がつかなくなっているのです。 それは、アンデルセンの話に出てくる『裸の王様』に似ているように感じます。自分は何も着ていない裸なのに、取り巻きの人たちが「素晴らしい洋服です」と誉めれば、そう思ってしまう、子供が見ればどう見てもその王様は裸なのに、大人たちはそれを認めない。 「自然との共存」と言いながら、コンクリートで土を覆い、その下で全滅する虫の叫び声が聞こえない。 小学校は「ゆとりの教育」を教育目標に掲げて授業時間を減らし、小学生は学校が終わると塾に走って行き、さらにゆとりが無くなる。 大学を「最高学府」と称し、そこで勉学に励むはずの大学生は四年間全く勉強しないで卒業したいと願う‥‥昭和の初めに比べれば、生産効率は飛躍的に向上しているのに、働く時間は増え続けて、むしろ年々、時間に追われるようになった。 倫理が叫ばれ、成人式の若者の振る舞いに眉をひそめているのに、その当人は赤信号を平気でわたる。 このようなことが環境でも同じように見られます。次章で本当の喋境と見かけの環境を取り上げてみたいと思います。 『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊) 20231018 49