●誰も環境を良くすることには反対できないために生じる運動 江戸時代の終わり、つまり幕末には多くの外国人が日本にやってきた。彼らは日本という国の文化が世界の他の国には見られない驚くべき特質が多いことに気が付いた。 その一つは「為政者が真面目」なことだった。ヨーロッパの王様もそうだったし、当時のアジア諸国の王も貴族も同じだったが、王族や貴族は庶民の幸福などはほとんど眼中になく、豪華な宮廷に住み、自分たちだけが庶民とは違う生活をしていた。 ところが日本では、殿様や士族のような支配階級の人たちがほとんど庶民と同じような生活をしていた。確かに殿様の家は庶民より立派だったし襖の絵も見事だが、畳の部屋には家具や金びかのものはほとんど何もなく、食事をする時には庶民と同じようにちゃぶ台を出してきてその上に料理を置く。それも決して華美ではない。 「民が豊かに、幸福になれば」と領民のことを考えている領主が多いことにも気が付いた。江戸時代の日本は実質的に「民主主義」だったのである。 それに比べると「現代の日本は民主主義ではない」と、東大の若手のある先生が言っていた。その理由は「民主主義ならば国民が主人である。従って、国民が最初にすべての情報に接しなければならないが、日本では政府やマスコミが情報をコントロールしている」面が大きい。だから日本は民主主義ではないとその先生は言う。 確かに、リサイクルもダイオキシンも、そして地球温暖化問題ですら日本の国民は真実を知らされない。 小泉首相時代に内閣府が行った全国各地のタウンミーティングでは政府の見解を肯定する「やらせ質問」が6割を越えたということが明るみになった。ここでは、もはや公の立場にある人間が情報を操作することに対する罪の意識はない。 人間は一度ウソをつくと、ウソをつくことが平気になり、また、ウソをついたことによって利益を得たりすると、さらに次もウソをつくようになる。本来は理想に燃えて、みんなで解決努力すべき環境問題なのに、なぜ「故意の誤報」が相次ぐのか。地球温暖化ばかりではなく、リサイクルも、ダイオキシンもそうなのはなぜか。 それはおそらく「環境がお金になる」からだろう。 誰も環境を改善するという主張や運動には反対しないし、反対できない。環境が良くなって悪いことはないからである。そこで、リサイクルしないとごみで溢れかえるとか、ダイオキシンは微量でも猛毒であるとか、地球が温暖化すると北極や南極の氷が溶けるとか、そういった事実とは違うニュースをつくり上げる。 それが一旦、新聞やテレビで報道されれば国民は慌てふためいて「税金を投じてでも、環境の破壊を防がなければならない」という合意が容易に得られる。 その後はさらに簡単である。合意が形成されているのだからまっしぐらに進めばいい。誰も「最初の情報が故意の誤報」であることなど気付かないか、忘れてしまう。そして「ゴミは分別すれば資源」などというような、これも事実と違うコピーが出回る。 故意の誤報と故意のキャンペーンによる最強のコンビができあがる。 容器包装リサイクルでは年間5000億円以上のお金が使われている。ダイオキシン対策費も膨大だった。地球温暖化では2兆円の税金が投じられるという。 庶民から見ると「取られる」お金だが、お金は取られる人だけがいるのではない。必ず「取る」人もいる。そして取られる人の数は日本国民全部だから約1億人だが、取る人の数は多く見積もっても数千人の規模である。仮に国民一人から1万円を取れば、それを貰う人が1万人でも一人1億円になる計算だ。 『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』武田邦彦 洋泉社刊 2007年 20230824 133