ポルトガルの性奴隷の要求をはねつけた豊臣秀吉 教科書では教えない ここで、奴隷制に関する例を一つお話ししましょう。 いわゆる鉄砲は1543年、種子島に漂着したポルトガル人によって日本に伝えられたと言われています。戦国時代には50万丁ほどの鉄砲が存在し、当時の日本は世界有数の鉄砲保有国でしたが、この鉄砲は西洋から輸入したものではなく、すべて日本人の技術者が製作したものでした。 鉄砲自体は製作することができましたが、火薬の原料となる硝石(しょうせき)の確保がネックでした。化学的に抽出する方法も工夫されていましたが産出量が極少で、硝石の十分な確保については外国からの輸入に頼らざるをえなかったのです。 硝石はポルトガル商人の手によって日本に輸入され続けたわけですが、その付随条件としてポルトガルは、「日本人の奴隷を50万人ほど用意せよ」と言ってきたといいます。求められた奴隷の多くは女性でしたので、いわゆる性奴隷です。 これに対して、当事の政治のトップにいた豊臣秀吉は「日本人を奴隷とするなど許さない」と拒否した上で、さらに「カネは補償してやるから、これまでに連れ出した日本人もすべて返せ」とポルトガルに伝えました。 これを学校では教えません。日本の戦後教育は「日本を悪く言い、欧米を讃え上げる」という考えで統一されているからです。 また、前述したように日本では革命もなく、社会的な序列もとても緩やかでした。中国大陸では数々の王朝が興っては消えました。王朝の交代時には徹底した粛清が行われたと言われています。3世紀、漢王朝が滅ぼされた時には、首都城内に住んでいた漢人の9割もの人々が殺裁されたという事実があるようです。 天皇の御代が途切れたことはありませんが、政権交代というものは日本にもありました。平安期の摂関政治から院政、武家政権として平氏政権の誕生、後に今日では幕府体制と言われるものが誕生して鎌倉幕府から室町幕府、戦国の混乱期があって江戸幕府へといった具合です。 ただし、中国や他の大陸諸国における政権交代時に見られるような、一般人への殺戮をはじめとする残虐行為は日本では見られませんでした。戦国時代などの乱世もありましたが海外に比べると、天皇の宣下に基づく概ね平和的で合理的な交代が行われたのです。 江戸時代の大名行列も、庶民は道端にひれ伏しはするものの「まあ大名と言っても、昔はただのアンチャンだったからなあ」などとつぶやきながら、行列が行き過ぎるのを待っていたようです。 「駕籠(かご)に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋(わらじ)をつくる人」という慣用旬は、社会構造に対する日本人の考え方をよく示しているものかもしれません。人それぞれに役割があって、世の中はそれで成り立っているということを社会全体が理解しているのです。 むやみに事を荒立てることなく、穏やかにやり過ごす―――。 物事の本質を皆がわかっている、というのが日本の伝統なのです。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060111 68