しあわせみんな 三号店

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西洋の大航海時代と日本の鎖国時代

西洋の大航海時代と日本の鎖国時代 16世紀をピークとする大航海時代、スペインは主にアメリカ大陸の植民地化を進め、ポルトガルはアジア地域の植民地化を進めました。大砲を搭載した戦艦、鉄砲を携えた軍隊が各地を侵略していきました。 植民地の対象とされた地域には対抗できるだけの軍事力も技術もありませんでしたから侵略を受け入れるしかなく、統治権を失い、キリスト教化され、現地の文化は破壊されていきました。 トルデシリャス条約の改訂条約である1529年締結のサラゴサ条約に則り、当時の日本には主にポルトガルがやってきていました。 サラゴサ条約では東経144度30分が境界線として設定してありました。この境界線は日本列島上にあります。 西日本から九州にかけてポルトガルが進出してきている一方、東北の武将・伊達政宗にはスペインとの交流があったというのはそのためです。 1543年、ポルトガル商人の乗った明国の船が日本の種子島に漂着します。鉄砲伝来の年とされています。 すでにその時には種子島氏島主の家督を継いでいたとされる16歳の種子島時尭(ときたか)は、実演を見て鉄砲に興味を持ち、ポルトガル商人から2丁を購入します。時尭は1丁を領内の鍛冶職人に渡して研究させ、鉄砲の国産化に成功しました。 品物を購入するのは資金があれば誰にでもできることでしょうが、研究して工夫を重ね、自らの手で生産してしまうところまでに至るのは日本人ならではの気質と能力でしょう。 これを機に鉄砲職人が登場し、材質や機能における改良を重ね、日本の多湿な環境に合わせた火薬の開発をも進めました。 鉄砲には破壊力が期待できました。また、大きな音を発しますから、敵を威嚇して戦意を消失させるのにも適当な兵器でした。群雄割拠していた戦国武将たちの間にた ちまち需要が高まります。 戦国武将たちは鉄砲を手に入れるだけではなく、鉄砲をどのように使うか、戦術的にも工夫を重ねます。 たとえば、多分に伝説的ではあるにせよ、1571年、武田勝頼に相対した「長篠の戦い」で織田信長は、三段撃ちという戦術を使ったとされています。 信長は、戦場となった長篠城の設楽原(したらがはら)に騎馬部隊を食い止める馬防柵を設け、その馬防柵の後ろに鉄砲隊の列を3段に分けて控えさせました。 まず、迫ってくる敵の騎馬部隊めがけて1段目が射撃します。一度撃った鉄砲は、次に発射するまでに弾込めの時間が必要ですから、射撃した1段目は最後方に下がって弾込め作業を行います。その時には2段目の射撃兵が騎馬部隊めがけて攻撃しているという、連続の大量射撃を可能とした戦術が三段撃ちでした。 武田軍の騎馬部隊は当時、戦国最強として恐れられていました。信長は、鉄砲を装備した軍隊で武田軍に勝利し、いわゆる天下人への道を突き進むことになります。 戦国時代、日本には最盛期でヨーロッパ全域が保有する鉄砲と同数の鉄砲があったとされています。それは言いすぎだと思いますが、ヨーロッパの大国一国ほどの保有数はあったでしょう。種子島時尭が2丁の鉄砲を購入してからわずか3、40 年で日本の軍事力はここまでに 達しました。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060129 119