しあわせみんな 三号店

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戦術・作戦の巧みな「世界最強」のモンゴル軍

戦術・作戦の巧みな「世界最強」のモンゴル軍 当時のモンゴル軍は「世界最強」と言われました。その理由は、「戦い方 」にあります。 1241年、モンゴル帝国のヨーロッパ遠征軍とポーランド・ドイツ連合軍との間で、「ワールシュタットの戦い」と呼ばれる戦争が起こりました。モンゴル軍が連合軍側の大将ヘンリク2世を討ち取って勝利した戦いです。 当時のヨーロッパの軍隊の主力は甲胄を着た「騎士」です。報酬次第で働く傭兵であり、一人ひとりが敵を討つ「個人戦」で戦争を処理していく傾向にありました。 これに対しモンゴル軍には全体的な「戦術」というものがありました。 まず、機動力に富む軽装備の騎兵と戦闘力に富む重装備の騎兵に分けて配備します。戦闘プランは状況によって違ってきますが、たとえば「軽装備の騎兵が突入して激戦を展開しておいて突然退却、退却に勢いを得た敵が追撃してきたところを伏兵が待ち受ける」といった戦術を採ります。 軽装備の騎兵が両面から挟み撃ちを仕掛けて追撃してきた敵を包み込み、背後に煙幕を張って戦場を見えなくし、パニックに陥れるといった心理作戦も得意でした。 兵士一人ひとりの能力もさることながら、戦術・作戦の巧みさ、集団の連携で敵を陥れる戦い方で世界各地に侵攻していったのがモンゴル軍でした。当時世界最大の帝国は、モンゴル軍の実力をもって築かれたのです。 1274年の文永の役で、モンゴル軍は通説では4万人の大軍で攻めてきたとされています。ワールシュタットの戦いに動員した人数は2万人だと言われていますから、モンゴル軍としては万全を期した、と言っていいでしょう。 しかしモンゴル軍はたった1日戦っただけで、日本の武士団の強さに嫌気がさしたのか、博多湾から撤退していきました。その撤退中に暴風雨に遭い、モンゴル軍の船は沈没しました。モンゴル軍の敗退を決定的なものにしたので、後にこの暴風雨は「 神風」と呼ばれます。 1281年の弘安の役では、モンゴルは15万人を動員しました。中国大陸の南宋の侵略に成功した直後であり、旧南宋から大量に 徴兵して日本に 送り込んだものとされています。 モンゴルの再来襲はほぼ間違いないと踏んでいた執権の北条時宗は、モンゴル軍の上陸が見込まれる博多湾の沿岸に、 20キロメートルにわたる石垣をつくらせました。「元寇防塁(ぼうるい)」と呼ばれています。 モンゴル軍は防塁を避けて博多湾の西の海岸に上陸しましたが、地形が悪く撃退されます。日本側の作戦成功というものでしょう。海上待機を余儀なくされたモン ゴル軍に対して、日本の武士団は小舟を使ってモンゴル船に乗り込みゲリラ作戦を仕掛けました。 6月から3カ月間、モンゴル軍は船上での生活と武士団の攻撃に苦しみました。そして夏が終わり、台風の季節へと突入します。暴風雨で約4割の船と兵士が海の藻屑になったと推定されています。モンゴル軍の惨敗です。 執権北条時宗のリーダーシップと、九州御家人を中心とする鎌倉武士団の実力によって、集団戦も個人戦も優位に戦い、外敵を駆逐したのが元寇でした。当時の兵器の主力である弓矢、あるいは甲胄といった防御装備の質も日本側のほうが優れていたと考えられます。 そして、日本側にこそあった「団結力」というものを見逃すことはできません。モンゴル軍はモンゴル人と朝鮮半島の高麗人、あるいは旧南宋の人々の混合部隊でした。また、「モンゴル」という国の存続、あるいは発展を考えていたわけでもありません。 モンゴルの使者の隷属命令をきっぱりと拒否した鎌倉幕府、そしてその方針に十分に応えた鎌倉武士団は、「自分の国を自分の手で守り続ける」という強い意識でまとまっていたのです。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060201 128