しあわせみんな 三号店

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第5章 日本の特長  豊かな全が産んだ唯一無二の国、日本 「大仏鋳造」のすごさ

第5章 日本の特長  豊かな全が産んだ唯一無二の国、日本 「大仏鋳造」のすごさ 日本人の科学や技術の到達レベルは、古代においても非常に高いものがあったというお話をしておきたいと思います。 まず、最も象徴的なのは「奈良の大仏」です。 奈良の大仏は、第45代聖武天皇の御世、745年から752年にかけて製造されました。 天災や疫病の多かった時代でした。聖武天皇鎮護国家建設の方針の下、仏教思想の浸透を図って日本全国に国分寺国分尼寺を設け、その中心として奈良に「東大寺」を建設しました。奈良の大仏は正式名を「慮舎那(るしゃな)仏像」という、東大寺大仏殿の御本尊です。 麿舎那仏は壮大な像で、総重量500トン、高さ14.7メートル、基壇周囲は70メートルに及びます。

一般的に古代の構築物で有名なものと言えば、まずはエジプトのピラミッドが挙げられるでしょう。 大きな石を四角に切り積み上げていく建築物で、これだけ巨大なものをつくり上げた古代技術ということでは評価されています。 時代はかなり後のこととなりますが、コンスタンティノープルの巨大な城、あるいは日本の城の石垣など、見事な石の建築物は世界に多く見られます。 石を加工するという点においては土木技術の範囲であり、岩をくりぬいて積み上げるという作業の規模を広げていくことで可能となる建築です。石をくりぬいたり積み上げたりして造るという技術は、北アメリカのマャ文明、アステカ文明、インカ文明などでも見られます。 一方、奈良東大寺の應舎那仏は金属である「銅」を使っています。それには、鉱物から銅を取り出すという「鋳造技術」が必要になってきます。 奈良時代は、すでに青銅器時代から鉄器時代に移り、鋳造技術もかなり進歩していた時期ではあります。 しかし、当時行われていた鋳造技術では、銅剣や銅鐸、銅鏡などの小さなものをつくり出すのが精一杯でした。 奈良の大仏のような巨大なものを鋳造するためには別の技術が必要です。銅鐸や銅鏡が一つ数百グラムでしかなかったことを考えると、総重量500トンの銅の鋳造だけでも、特別な科学の考え方、画期的かつ具体的な技術が必要であっただろうことがわかります。 当時の銅の加工品づくりにおいては、小さいも のなら山肌に存在する自然銅を使いました。 銅は還元されやすく金属になりやすいので地表で自然に金属銅になるも のがあり、それを自然銅と言います。自然銅であれば、それを集めてきて溶かし、型に流し込むという作業で済みます。 使う銅の量も少ない銅製の飾りなどなら、それほど高熱にする必要もありませんし、燃料もわずかで済みます。型に流し込んで表面を加工すれば、それででき 上がってし ます。 しかし、総重量500トンもの銅を手に入れようというのであれば、自然銅では到底、量が足らず、鋳造して用意しなければなりません。鋳造しようという のであれば、銅鉱脈を持つ大きな鉱山が必要です。 銅鉱脈とは銅の硫化鉱物、酸化鉱物、炭酸塩鉱物などのことを言います。それらの鉱物から酸素や硫黄を取り除いて銅にします。 そして、その作業を行うためには、1000℃近くの温度を生む方法と大きな炉が必要です。 奈良の大仏の原料となった銅鉱石は、現在の山口県の長登銅山のも のです。 ここの銅鉱石は銅とヒ素が一緒に出てくるために、約1000℃で溶ける一般の銅鉱石より融点が低く、900℃ほどで融解します。その特徴から、長登銅山が選ばれたことは間違いないでしょう。それでも当時、500トンもの銅を精製するのはたいへんなことでした。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060211 165