しあわせみんな 三号店

日本人は太古の昔から「しあわせみんな」という素晴らしい知恵をもって生きてきました

民間人が標的にされた第二次世界大戦

民間人が標的にされた第二次世界大戦 第二次世界大戦時、主に連合軍は都市に対する無差別爆撃を実行しました。 そのきっかけとなったのは、「日中戦争」(1937~45年)において中華民国の部隊が便衣兵(べんいへい)といって軍服ではない 一般の人々のような服を着ながら鉄砲を手にして日本軍を狙うという行為にあります。 それまでは戦時法において、民間人を装って攻撃を仕掛けることは、絶対に許されない行為とされてきました。戦闘時の兵士が必ず軍服を着るというのは最低限のルールであり、戦争の時に民間人がその巻き添えをくって命を落とさないために必要不可欠なことなのです。 日本でもかつての武士は織旗(のぼりばた)を立て、家紋などの印を掲げて戦をしていました。ヨーロッパでも青色や赤色といった派手な軍服を着て、隊列を組んでラッパを吹き、太鼓を叩きながら戦争をしていました。 これはとりもなおさず「自分たちは軍隊だ」という気概の表れでもありました。軍隊と軍隊の間では命の奪い合いをしてもいいけれど、決して民間人に刃を向けないという衿持(さょうじ)を持って戦っていたのです。 しかし、それが崩れたのが「南京事変」(1937年)でした。一般人の服を着た中華民国の兵が日本人を襲うということが度々行われたことで、兵士と民間人の区別を曖昧にしてしまったのです。そうなってしまえば兵士も自分の命を守るためには、時として「民間人か兵士か判別不能の相手」とも戦う必要に迫られます。



そうしていよいよ第二次世界大戦が厳しくなってくると、今度は米軍が東京を空襲しました。その頃の東京には日本の軍隊はほとんどおらず 、残っている多くが女性と子供と老人であることを知ったうえで実行されました。 日本にしても「一億玉砕」をスローガンとしていただけに、アメリカとしては民間人がゲリラ化することを恐れたところもあったかもしれませんが、そうだとしてもこの空襲はあまりにも酷いものでした。 サイパンから出撃した米軍の戦略爆撃機隊は、第一波で今の東京でいう山手線の外側を狙って通常爆弾による爆撃をしました。通常爆弾は地上近くでそのなかに詰まっている火薬が爆発します。そうして火薬を包んでいる鉄板が粉々に砕けて飛び散って、それが身体に突き刺さった人たちが死ぬというのが通常爆弾による殺戮(さつりく)の方法です。 そしてこの時には大きな爆発音がして激しい振動が起こります。そうすると爆破の被害を免れた人々も音と振動の恐怖から山手線の内側に向かって逃げていきました。そうして山手線の内側に人間が集まってきたところでアメリカ軍が第二波としてドラム缶にガソリンを詰めたいわゆる焼夷弾を空から落としました。焼夷弾は大きな爆発音などはしないのですが、地上に落ちたとたんにそのドラム缶が割れてガソリンが飛び散り、そこに火が点いて周辺を焼き尽くします。 この焼夷弾の爆撃によって、たくさんの人々が火だるまになって死んでいきました。 1945年3月10日未明の「東京大空襲」では一晩に10万人もの大量の非戦闘員が殺戮され、それまでの歴史においても類を見ないような悲惨な民間人虐殺が行われたのです。 『「新型コロナ」「EV脱炭素」「SDGs」の大ウソ』武田邦彦著 ビジネス社刊 20240418  P165