しあわせみんな 三号店

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八 義の客観性

八 義の客観性 「不義を嫌うて義を立つる事成りがたきものなり。然れども、義を立つるを至極と思ひ、一向に義を立つる故に却つて 誤 多きものなり。義より上に道はあるなり。これを見付くる事容易に成りがたし。高上の骰智なり。これより見る時は、義などは細きものなり。こは我が身に覚えたる時ならでは、知れざるものなり。但し我こそ見付くべき事成らずとも、この道に到り様はあるものなり。そは人に談合なり。たとへ道に至らぬ人にても、脇から人の上は見ゆるものなり。碁に脇目八目と云ふが如し。念々非を知ると云ふも、談合に極るなり。話を聞き覚え、書物を見覚ゆるも、我が分別を捨て、古人の分別に付く為なり。」 (聞書第一 一二三頁) 正義というものの相対性について、「葉隠」はこの項目では、あたかも民主主義の政治理念に近づいている。おのれの倍ずる正義が確認され、実証されるためには、第三者の判断をまたなければならないというのが民主主義の理念である。「葉隠」は、これほど激しい行動哲学を教えながら、よってもってたつ義については、いつも疑問を残していた。行動の純枠さは主観の純枠さである。しかし、もし行動が義を根拠にするならば、その義の純粋さは別の方法で確かめられなければならない。行動自身の純枠さを行動で確かめるとともに、常朝は義の純枠さは別の方途によらなければならぬことを知っていた。それが談合ということである。傍目八目のみが、ある正義に惑溺した人問をすくうことができる。 「葉隠」はこういう意味でイデオロギー的に、相対的な立場に立つものだということができる。 『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫)   20240803  P46