九 世間知 直茂公の御壁書(おかべがき)に『大事の思案は軽くすべし。』とあり。一鼎の註には、『小事の思案は重くすべし。』と致され候。およそ大事と云ふは、二三箇条ならではあるまじく候。これは平生に詮議して見れば知れてゐることなり。これを前もつて思案し置きて、大事の時取り出して軽くする事と思はるるなり。兼ては不覚悟にして、その揚に臨んで軽く分別する事も成りがたく、図に当る事不定なり。然れば兼て地盤を堅固に据ゑて置くが『大事の思案は軽くすぺし。』と仰せられ候箇条の基と思はるる事なり。」(聞書第一 一一七貞) 思想は覚悟である。覚悟は長年にわたって日々確かめられなければならない。常朝は大思想と小思想を分けているように思われる。つまり大思想は平生から準備されて、行動の決断の瞬間にあたっては、おのずから軽々と成就されなければならない。小思想はその時その時の小事に関する思想である。プロスペ ル・メリメがかつて言った小説家というものはどんな小さいものにも理論を持っていなければならない。たとえば手袋一つにも理論を持っていなければならない。小説家にかぎらず、われわれは生き、生を享楽する側面では小さな事柄にも常に理論を持ち、判断を働かせ、決断をくだしていかなければならない。もしそれをゆるがせにすれば、生活の体系は崩れ、大思想さえ侵されてしまうことがある。イギリス人はお茶を飲むときに、「ミルク・ファースト」か「ティー・ファースト」か聞いてまわる。一つの茶わんの中にミルクを先に入れても、お茶を先に入れても同じようであるが、その小さな事柄の中に、イギリス人の生活の理念が確固としてあるのである。あるイギリス人にとっては、自分は紅茶茶わんに先にミルクを入れて、あとからお茶を入れるべきであるにもかかわらず、もし人が先に紅茶を入れて、あとから、ミルクを入れれば、自分のもっとも重大な思想を侵される第一歩と考えるにちがいない。 常朝が言っている「小事の思案は重くすべし。」というのは、アリの穴から堤防が崩れるように、日常坐臥の小さな理論、小さな思想を重んじたことと考えられる。それが現代のようにイデオロギーのみが重んじられて、日常生活の瑣末のしきたりが軽んじられている、倒錯した時代に対するよい教訓なのである。 『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫) 20240804 P48