しあわせみんな 三号店

日本人は太古の昔から「しあわせみんな」という素晴らしい知恵をもって生きてきました

三 「葉隠」の読み方  現代人の前に立ちふさがる死のフラストレーション

三 「葉隠」の読み方  現代人の前に立ちふさがる死のフラストレーション 「葉隠」がかつて読まれたのは、戦争中の死の季節においてであった。当時はポール・ プールジェの小説「死」が争って読まれ、また「葉隠」は戦場に行く青年たちの覚悟をかためる書として、大いに推奨されていた。 現在、「葉隠」が読まれるとすれば、どういう観点から読まれるかわたしにはわからない。 もし、読まれる理由があるとすれば、むしろ戦争中とは反対の裏側の事情で、いまわれわれの眼前に巨大な死のフラストレーションが、広がっているからとしか説明がつかない。あらゆる欲求不油が満足されたあとに、死だけがわれわれの欲求不満になっているのである。そして、その死を美化するといなとにかかわらず、死が存在し、少しずつわれわれを侵していることは、まったく疑問の余地はない。 若い人は観念的に死を歩み、中年以上の人は暇があればあるほどガンの恐怖におびえている。そしてガンこそは、どんな政治権力もあえてしないような残酷な殺人なのである。 日本人は、死をいつも生活の裏側にひしひしと意識していた国民であった。しかし日本人の死の観念は明るく直線的で、その点、外国人の考えるいまわしい、恐るべき死の姿とは違っている。中世ヨーロッパにおける大きな鎌を持った死神の姿は、日本人の脳褒にはなかった。また、メキシコのように死がわがもの顔にはびこっている、あの激しい太陽の下の、夏草の繁茂におおわれた、古いアズテックやトルテックの廃墟が、いまなお近代都市のかたわらに屹立(きつりつ)している国におけるような死のイメージとも、日本人の死のイメージは違っているあのような荒々しい死ではないし、何かその死の果てに清い泉のようなものが存在していてその泉のようなものから現世へ絶えずせせらぎがそそいでいるような死のイメージは、長らく日本人の芸術を富ませてきた。 『葉隠入門』三島由紀夫 (新潮文庫)   20240913  P84