しあわせみんな 三号店

日本人は太古の昔から「しあわせみんな」という素晴らしい知恵をもって生きてきました

偶々立ち寄った古本屋に三島由紀夫先生の『憂国』のビデオがあり、、、

偶々立ち寄った古本屋に三島由紀夫先生の『憂国』のビデオがあり、高価でしたがどうしても、欲しくて、買ってしまいました。三島由紀夫先生が、どんな思いでこの『憂国』を撮影したのか、付録についていた、三島由紀夫先生の製作話がございましたので、以下に書き起こしました。ちょっと長いですが、 以下引用 東宝ビデオ『憂国』から 短縫小説「憂国は昭和三十六年一月冬季号の「小説中央公論」のために書かれたものである。 この小説は私にとっては忘れがたい作品で、わづか五十枚足らずのものながら、その中に自分のいろんな要素が集約的に入ってゐる作品と思はれるので、もし私の小説を一編だけ読みたいといふ人があったらば、広く読まれた「潮騒」などよりも、むしろこの「憂国」一編を読んでもらへば、私といふ作家のいいところも悪いところもひつくるめて、わかつてもらへるやうに考へてゐる。それだけ受着の深い作品であるから、私はこの映画化の企画があることを知りながら、その企画に対してはいつも疑問を抱いてきた。 普通、長編小説を映画会社に売る場合に、私はむづかしい注文は出さない主義で、映画といふ別の表現手段で自由に解釈されるままにまかせてきたが「憂国」だけはどうしてもさうしたくない気持があった。もっとも、企画自体は二、三の映画会社で練つてゐるといふ話はあったが、上層部を通らないために、話はご破算になるのが常であった。多分その原因は、ストーリーが単純すぎることと、ラヴシーンの部分はよくても、後半の死の部分が陰惨すぎることが怖れられたためであると思ふ。これはあとの話になるが、昨年の暮になって某社から、私の演出でこの作品をやりたいといふ話があったが、すべてはあとの祭であった。 さうかうしてゐるうちに、私は自然にこの映画化のイメージを心の中にゑがくやうになってゐた。 かうまで自分のすべてを投げ込んだ作品であるから、やるならば、何もかも自分でやりたい気持がしてゐた。この何もかも、といふ裡には、自ら徘優として演じることも入ってゐる。現代では俳優といふ職業はいかにも特殊なものに思はれてゐるが、モリエールやディッケンズの例を引くまでもなく、私には自作自演といふことは、自然な一連の芸術行為のやうに思はれる。又、それは、ボオドレエルの言葉を借りれば、「死刑囚であると同時に、死刑執行人であることなのだ」。そのときはじめて私の中で一つの円環が閉ぢられるのだ。 そもそも映画化の場合には、言葉の表現による抽象作用を、抽象作用を経ない前の状態の混沌に引き戻すことが必要であると思はれた。それはいはば普通の文学作品の映画化と逆のいき方であって、普通の文学作品の映画化の場合には、監督が言葉の抽象作用を通じて、自分の中に生れたイメージをフィルムの映像として再現するところに主眼が置かれるけれども、私の場合は私自身がその作品の作者なのであるから、一見整理され、整頓されたストーリーとして成立してゐるものの、オリジナルな混沌は私の内部にあるのである。 私はその混沌を自分の手でほじくり起してみたかった。そこには、言葉の表面に現はれた一つの時代の一つのドラマばかりでなく、日本人の民族意識の中にある深い混沌と、複合と、錯綜が合まれてゐた。 この作品に対する批評のうらに私が最もおもしろいと思ったものは、俳優の森稚之氏がたまたまこの作品を読んで「この小説は、はじめに夫婦が最後の交はりを結んで、次に自刃するのだが、はじめの愛の行為と終りの自刃は同じことではないのですか。こいつは同じことが重複してゐるからやりきれないね」といったことがある。私はここに、普通の文芸批評と違った感覚的な作品の享受のしかたを発見して、非常に興味があった。私のねらったところもそれであって、日本人のエロースが死といかにして結びつくか、しかも一定の追ひ詰められた政治的状況において、正義に、あるひはその政治的状況に殉じるために、エロースがいかに最高度の形をとるか、そこに主眼があったので ある。 こんなことを心の中で思ってはゐながら、私は自分でこの作品を映画化するといふことについては、まったく自信がなかった。映画のつくり方については、映画に出演したただ一回の経験から、多少ののぞき見的な知識は得てゐたけれども、それと同時に、映画の費やす厖大な費用、映画撮影の一瞬一瞬ごとに流れ去つていく金のおびただしさにもよく目が開いてゐた。いづれにしろ、映画の一木分の費用を自費でつくり出すことは不可能に思はれた。しかし、日を経るにつれて、この映画作品をつくつてみたいといふ気持は私の中で徐々に強まつてゐたので、だれかに話をしてみたいと思はずにはゐられなかった。 たまたま頭に浮んだのは、能の研究家で、私の二、三の上演不可能と思はれた一幕物戯曲を奇抜な形式で演出してくれた堂本正樹氏であった。たまたま昭和四十年の一月に堂本氏と会ふ機会があったので、私はそれとなくこのプランを話して、「近ごろは学生のつくる短編映画がいろいろあるさうだが、学生のスタッフでごく安く、八ミリか十六ミリの映画がとれないものだらうか。そのとき君は演出してくれるかね」と相談をもらかけた。堂本氏はただちに話に乗ってくれた。これからも繰り返されることだが、私が実にふしぎに思ふのは、それから話をもらかけた人が、だれもかれも一言のもとに話に乗ってくれたことである。 堂本氏と私とのプランは、能形式でやることが一番経済的だといふことだった。私も堂本氏に頼んだそもそもの理由がそれであって、何らかの形で能の集約性と単純性をこの作品の製作の大きな要素にしたいと考へてゐた。もちろん第一の原因は費用の点が安くてすむといふことであるが、第二の理由は、もっと芸術的なもので、言葉と映像との差を考へると、この短編小説の中に出てくるさまざまな日常生活の小道具は、絵にする場合に、作品の純粋性を減らしこそすれ、決して増しはしないことが危ぶまれたからである。昭和十年代の貧乏な中尉の借りてゐる貸家であるから、当然その家内の造作も貧弱であるべきであり、そこで使はれてゐる日常の什器、家具の類も、一つ一つ時代の制約と経済的条件の制約をもつてをり、またその愛の場面にふとんが出たり、まくらが出たり、またその死の決心の場面にちやぶ台が出たり、火鉢が出たりすることは、害ばかりで一つも利がないやうに思はれた。私の観念によれば、人間の裸体よりも、布団や枕のはうがより猥褻なのである。 コデルロス・ド・ラクロが観念のはうがもっと猥褻だといふ信念に基づいて「危険な関係」を書いたのと反対に、われわれの日常経験の中から猥褻を与へる観念を払拭するには、それらの日常性を全部払拭しなければならなかった。そしてわれわれの脳裏にはだんだんに、この作品の一番本質的な、一番不可欠な要素だけが柾目のやうにくつきりと浮び出てきたのである。 一方、私はこの映画の製作について、もつと技術的な専門家のアドバイスを仰ぎたかったので、かねて親しかった大映の藤井浩明プロデューサーにも相談をもちかけた。堂本氏と藤井氏と三人で会った会合は、一月十三日のことであったが、藤井氏はその話を聞くと、言下に、それは三十五ミリでおやりなさい、といった。藤井氏は私の作品の映画化を最も多く担当したプロデューサーであり、市川昆氏の傑作「炎上」のプロデューサーでもあるが、私は長年の交遊で、氏の誠実さと熱意を信じてゐた。そして、これはその後一年間の経過にわたつていよいよはつきりすることであるが、藤井氏がプロデューサーとしていかに適任であるかは、第一の最も大きな要素として、氏ができあがった作品に対して絶対に信頼を揺がせないことであった。作品はできあがると作者の手を離れて、風船のやうに空にふはふはと浮んでいく。作者の中で確信はたちまち砕け、良し悪しの判断は第三者にまかせられる。プロデューサーこそはその風船の糸をしつかりと握つてゐることのできるただ一人の人なのである。彼がその糸から手を放したらおしまひである。藤井氏はいついかなる場合にも、この作品に対する完全な愛着と信頼を少しても失ふことがなかった。それがスタッフ全員をどれだけ力づけたかわからない。 藤井氏は、三十五ミリでとつておけば、一般にも上映ができ、外国の映画祭に出すこともできるといふことが大切であり、また三十五ミリでとつても、それほどの費用の差はないと説明した。問題はそれだけであったから、氏が保証してくれれば、私は安心して三十五ミリに計画を変更することができた。 その場でさつそくわれわれの能のプランが相談されたが、ひたすら費用のかかることを怖れてゐる私は、ただ能の舞台の形式を借りるだけで、スタジオの地面に白い一枚の能舞台と同じ大きさの板を敷いて、四木の柱を立てれば、それでいいのではないかとさへ考へてゐた。何はともあれ、私にとつてはまつ四角な、まつ白な限定空間が必要だったのである。そして、人間の生と死のすべてがそのまつ白な、まつ四角な限定空間の中でかげろふのやうにはかなく立ちのぼり、また消えていく形がほしかったのである。 しかし、話してゐるうちにイメージはだんだんにひろがり、少なくとも能舞台に近いものでなければならないといふふうに変つていった。白い四角な床は地面から何尺か高くなければならず、橋ガカリに類似したものもなければならず、一の松、二の松、三の松もなければならず、その松には、私の考へで、歌舞伎の雪の場面のやうな白い綿がかかつてゐなければならなかった。そして堂本氏は、橋ガカリのうしろに羽目板のかはりに白い襖があることを要求し、私はまた舞台の奥に、松羽目のかはりに巨大な「至誠」の軸がかかつてゐて、それがたえず登場人物の運命を支配してゐる必要があると考へた。そして、黒白の映画であるから、白の効果が最も大切で、能舞台とはいひながら、すべてが純白に装はれてゐなければならなかった。黒を代表するものは血だけであった。 一旦話がまとまると、仕事はトントン拍子に追んだ。私の中にプランはすでに成熟してゐて、セリフを一切使はないこと、物語の背景の状況はすべて字幕で説明すること、すべてのエモーションはワグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「 愛の死(リーベストート) のテーマでもつて統一することなどが考へられてゐた。 私は異常な興奮をもつていきなり撮影台本を書き始め、僅々数日の間に、一月十六日には脱稿した。これはただのシナリオではなく、映画演出の分野であるこまかいコンチニュイティの立て方から、カメラの位置、ライトの位置までこまかく指定したものである。そして、一月二十日には藤井氏と堂本氏とともに自宅で、その台本を古ぼけたワグナーのレコードに合せて読み合せる会が開かれた。私はストップウォッチを買ひ入れて、各カットの何秒かの経過ごとにストップウォッチを動かし、それをワグナーのレコードに合せてみんなに聞かせた。その古レコードは歌のまったく入らない「トリスタン」の抜率曲であったが、両氏とも、あまりにも物語の経過と音の経過とがぴったりするので、驚いてゐた。あとやるべきことは、よい撮影者を得ることだが、私はなんとしてでも撮影者は一流のカメラマンであってほしかった。映画の芸術的効果を発揮するには、ほかのことはともあれ、撮影の効果が七、八〇%を占めると思はれるので、この仕事に乗気になってくれる一流のカメラマンの選定は藤井氏にまかせ、あと私は衣裳、小道具の手配から、さらに相手役の女優の選定に熱意を注ぐことになった。 一月末の寒い東京の町を、私はニ・ニ六事件当時の軍服を求めてさまよひ歩いた。あめや横丁に第二次世界大戦記念館といふふしぎな店のあることを私は知つてゐた。行ってみると、そこには回顧的なたくさんの軍用品が店先に置かれてはあるものの、店では意外に当時の軍事制度の変化の知識に乏しく、見せてくれたものは、すでに昭和十三年以降変更されたところの折襟の軍服であった。 昭和十一年当時の軍服はどうしても詰襟で なくてはならない。そして輜重(しちょうへい)兵の襟章の色も、いま刊行されてゐる資料はどこにもなく、私の少年時代の古い「われらの陸海軍」といふ木の色刷りの表からさがし出すほかはなかった。 そこに軍服がなかったので、話を聞いて、近くの大きな軍服問屋へ行ってみた。米軍の払ひおろし軍服や、映画演劇のための軍服の注文を受ける店であったが、店では剣もほろろの応対で、ちやうど出かけようとしてゐた店のおやぢは、たった一着の軍服の注文と聞くと、木で鼻をくくったやうな挨拶をし、ろくに人の話も聞かないで、フフンと冷笑しながら、店を出ていった。 まして軍帽に至っては、映画その他で使はれてゐる軍帽が、いかに当時の実際に反したいいかげんな製作品であるかがよくわかった。困り果てた私は、水道橋の駅ぎはの常見帽子店といふ製帽専門の帽子屋へ飛び込むほかはなかった。ここで念入りに説明すると、はじめて軍帽について正確な知識を持つてゐる人に出会ったといふことが感じられた。ここで調べたところによれば、ニ・ニ六事件当時の将校の軍帽をつくつてゐた生き残りの職人がをり、私が見せたニ・ニ六事件の将校の写真の中に、彼はたしかに自分のつくった軍帽を発見してゐた。 当時青年将校は軍のお仕着せの軍帽ばかりでなく、それぞれの趣味に従って、かなりこった形の軍帽をうるさく注文してつくつてゐたこともわかつてきた。私はその中の形のよい軍帽を指定して、その中気の職人が生涯の最後の情熱を燃やしてつくった軍帽をつひに手にすることができた。常見帽子店の話によると、長らく病床に伏してゐた老職人は、この製作が危ぶまれてゐたけれども、この注文を受けてたちまら病状が好転し、一つの軍帽をつくることによって強烈なノスタルジアが満たされると、いまは平気で起(た)ち居(ゐ)することができるほどに健康を回復したさうである。一方、軍服については既製品はないことがわかったので、かねて注文してゐた茅場町の細野洋服店に頼んで、特別に資料を集めてもらつて、当時の軍服をつくつてもらふことになった。 これて軍服の問題は解決したが、あとは、さまざまの小道具の端に至るまで、私のやるべき仕事がいつばい残ってゐた。字幕の部分は、巻紙に墨で私自身が自筆で書くことにきめてゐたので、鳩居堂に行って巻紙を買ひ、日本語の原文と、英訳、仏訳のそれぞれの訳文を丹念に墨で書いた。このやうなことができたの、ちゃうど六月ごろから「新潮」の大長編に取りかかる前の最後の精神的な休暇の中に私がゐたからである。 一方、相手役の女優の選定は困難をきはめた。写真家の友人細江英公氏の協力もあって、二、三の女性に会つてみたが、それぞれに長所はあっても、やはり私のイメージに合はなかった。この中尉夫人は妖艶でありすぎてもいけず、色気がなさすぎてもいけなかった。美しすぎてもいけず、もちろん醜くあってはならなかった。成熟しすぎてゐてもいけず、未成熟であってもいけなかった。あまりに悲劇を予感させすぎてもいけず、もちろん喜劇的であってはならなかった。彼女こそ、まさに昭和十年代の平凡な陸軍中尉が自分の妻こそは世界一の美人だと思ふやうな、素朴であり、女らしく、しかも情熱をうらに秘めた女性でなければならなかった。現にニ・ニ六事件の有志将校は二つの盟約を交してゐた。一つは、決して陸軍大学に進まないといふことであり、一つは妻帯しないといふことであった、この小説の悲劇は、それにもかかはらず妻帯した青年将校が、妻を愛するあまりに計画から疎外されるところに原因があるのであるから、中尉夫人にはそれだけのものが観客から感じられなければならない。 私はたまたま英国文化振興会の招きで、三月十日にロンドンヘ発つことになってゐた。その前になんとか女優の選定を急がなくては、四月中に撮影といふスケジュールが狂つてしまふのである。しかしこれも藤井氏のおかげで、二月十八日に山本典子といふ女性を紹介されたところで解決された。 山本嬢は元大映のニューフェースで、二、三のチョイ役で画面に姿を現はした程度の演技経験しかもたないままに、会社をやめて遊んでゐるところを藤井氏の目にとまったのである。たまたま家が改築中で、ホテル・ニュージャパンに泊つてゐた私は、藤井氏の連れてきた山本嬢にロビーではじめて会った。彼女はもらろん私の顔も知らず、われわれの無礼な質問にも実にてんたんに明るく答へた。 私はまづ彼女のナイーヴな外見や態度に、求めてゐたものが得られたと恩じた。彼女は私の職業がまったくわからなかったらしく、「あなた、もと大映にゐたの」などと聞くのであった。あとで彼女の母堂から聞いたところによると、最初の会見後うちへ帰った彼女は「今日はヤクザみたいな人に会つたわ。でもなんだか偉い人らしかったわ」といったさうである。演技経験については、私の撮影台本自体がそれほどむづかしい演技を要求せず、その点では安心してゐたし、セリフもないので、セリフのテストをする必要もなかった。 さうかうするうらに、藤井氏が、願つてもないことに渡辺公夫氏を紹介してくれた。氏は一流のカメラマンであるのみならず、演出にも興味をもら、最近「パラリンピック」を監督撮影して成功してゐた。氏も話を聞くなり、利害を度外視してこの企画に乗ってくれた人であった。私は渡辺氏にも山本嬢を引き合せ、氏の賛同を得た。そして山本嬢の要請によって、彼女に鶴岡淑子といふ新しい芸名を与へた。その鶴岡といふ名に、鶴岡八幡宮の古風で典雅なイメージを含め、淑子といふ名で彼女の性格を象徴したのである。 私の演出プランは、青年将校の役をまったく一個のロボットとして扱ふことであった。彼はただ軍人、ただ大義に殉ずるもの、ただモラルのために献身するもの、ただ純真無垢な軍人精神の権化でなければならなかった。私は、あらゆる有名俳優の顔や表情がそのイメージを阻害することを知つてゐた。そこで、武山中尉に能面と同じゃうに軍帽を目深にかぶらせ、彼の行動を軍帽と軍服で表現しようとした。彼の一挙一動は、生きてゐる人間が行動するといふよりも、軍帽と軍服が行動させなければならなかった。そして彼が愛の場面に臨むときは、まったく一個の男としての裸体でなければならなかった。一方、物語の中の、抑圧された情熱が解放されていく過程と、その情熱の極致で大義と結びつく過程はすべて相手役の女の顔からうかがひ知られねばならなかった。そこで撮影台本には中尉夫人の大写しが多用され、それは経験ある演技者の常識的な演技表現ではなしに、私がタイプと認めた女性のさまざまな角度からカメラがとらへた造形的効果をもつて滴足すべきで あった。堂本氏がこの脚木を一覧して、この中で 唯一の芝居のある場面は、良人の切腹の前に妻が静かに深いおじぎをするところだけである、といったのは正しい。私はむしろ、中尉夫人の演出の部分で堂本氏に恃むところが大きかった。物語の終りの部分で、彼女が死出の化粧をして、舞台の血の海を歩むところは、堂本氏の能や日本舞踊における造形が腕をふるふべき部分であった。 舞台のディテールに熟達してゐる氏は、さまざまなプランを私の台本に加へ、もっとも印象的な効果的な一例は、中尉が切腹息絶えて俯伏せに倒れると、軍帽が脱げて前へころがり、中尉夫人が死出の化粧で橋ガカリヘゆくとき、白い裾の端がその軍帽にさはつて、今までころがったまま立ってゐた軍帽がパタリと倒れる、といふ堂本案である。これは画面によく生かされてゐる。 一方、氏のプランで、撮影の都合で生かされなかったものもあった。中尉の屍体の項から突き出てゐる短刀の刃先を前景として、これをナメて、遠く橋ガカリで、良人の死をも忘れ去ったやうに化粧に集中してゐる中尉夫人を遠景に見せる構図など、編集の段階で、惜しくも割愛せればならなかった。撮影台本にあって映画にないカットも二、三あるが、いづれも技術上の難点あるひは失敗から来たもので、忙しい現場ではかういふことは仕方があるまい。 一つの映画作品として、私が究極的に狙ったものは、もともと一個のドラマではなかった。むしろドラマの前段階の宗教的なドローメノンの、農耕祭儀の犠牲の儀式、自然の中における人間の植物的運命の、昂揚と破滅と再生の呪術的な祭式に似たものだった。従ってそれは、何ら文学や文字を介さずに、狩猟の歓喜に似た人間のもっとも原始的な感動を呼びさますものでなければならず、目をおほふほどの恐怖と衝撃の中から、主人公と共に観客も亦再生する、反文明的なリテュアルの再現でなければならなかった。言葉よりも、却つて逆説的にも、近代機械技術の発明品であるカメラによる映像表現が、言葉以前の、力づよい、野蛮なイメージを復活させ、芸術作品からあらゆる近代的要素を払拭するのに、役立つてくれるであらう。……私はこの作品に、さういふ途方もない夢を賭けてゐたのである。 さて私は三月十日にロンドンに発ったが、三月末までの英国滞在のあひだ、心はいつも「憂国」の製作から離れなかった。第一に、中尉夫人が集めてゐる瀕戸物の小動物のコレクションが、日本では思はしいものが見つからず、ロンドンの町の暗いショーウインドウからショーウインドウヘさがしまはって、やっと気にいるものを得たのもそのころである。また「トリスタンとイゾルデ」の古レコードも新しい版がどうしても見つからず、ロンドン一のレコード屋へ行っても「コンプリートリー・フィニッシュト」と答へられるだけであった。私はロンドン滞在中、夜になると一人でいろいろと演出プランや撮影のこまかいプランを練るのを楽しみにした。そして映画は脳衷ではすでにくつきりとできあがつてゐた。 三月二十八日に帰国するとすぐ私は、私用の小さな不完全なリコピーの機械で、一生懸命台本を刷り始めた。原紙は次第にぼろぼろになり、手は現像液でよごれ、いかにも手でもつて映画をつくつてゐるといふ感じがだんだん鮮やかになつてきた。一方、鳩居堂で一番大きな紙を買つてきて、一番大きな筆で、あたかも当時の陸軍中将が若い士官のために書いてやったやうな形の揮毫のタッチで「至誠 」の二字を書き、これを銀座の養清堂へ持つていつて表装してもらった。その間われわれはたびたび会つては相談を重ね、七回、八回と会合は重ねられ、堂本氏は演出助手として今枝靖固氏を連れてきた。また私は、スチールマンとして、昔からよく知つてゐる写真家の神谷武和氏と助手の松永清寿君を連れてきた。四月下旬の撮影に向つてディスカッションが何度も重ねられ、私と渡辺氏との間では、一カット一カットの絵の構成について議論がたたかはされた。 まづスタジオを借りなければならなかった。藤井氏が、大蔵映画のスタジオがあいてゐて、ここならばかなりスタジオ・レンタルも安く借りられるといふ話だったので、四月九日にわれわれはスタジオ見学に出かけ、春の草の緑の増したがらんとした地所の中に建つてゐる古ぼけたスタジオの中を見てまはった。外はうららかな春の陽が照つてゐるのに、スタジオの中はほこりに包まれてひんやりしてゐた。 私は映画のセット撮影における殺伐な雰囲気を多少知つてゐる。それがたまらなく好きなのである。芝居の稽古場はがいして明るい場所で行はれるが、映画の仕事には、ことにセット撮影では、いふにいはれない殺伐陰惨な雰囲気がつきまとふのは、あのスタジオといふ建築の、しかも古ぼけたスタジオのあやしい雰囲気によるものだと思はれる。外部の日光に逆らつて、あの暗い中でカチンコがなり、カメラが近づくときの一種おどろおどろしい雰囲気はたとへるものがない。私はそれを思つて心のときめくのを感じた。 しかし私はすべてを世間の目から隠しておきたかった。これは私の前の映画出演の経験からいへることで あるが、映画が大きな会社の手によって営まれてゐると、それぞれのセクションは独立して、映画会社の宣伝部はことに自社の大事でないスターに対しては、どんなみつともない材料でも宣伝に使って恬(てん)として恥ぢない。のみならず、ジャーナリズムは珍奇な事柄にはすばらしい嗅覚を働かして、集まり群がつてきて、仕事の自然な、正常な進行を阻害してしまふ。私は、もしこのことが世間に知られれば、短い撮影期間が台なしにされることを信じてゐた。 幸ひ、同志はいづれも口が固く、世間には何も知られずに撮影に持ち込むことができさうに思はれた。あとの話になるが、撮影中も私はドレッシング・ルームからスタジオまで周囲に人がゐないことを見究めてから歩いていき、また撮影所の玄関にある撮影中の映画題名の礼も一切出さないやうに頼んでおいた。 一方メーキャップマンは、大映で私が世話になった工藤貞夫氏を連れてきた。氏はアメリカのマックスファクターで勉強しただけの成果があって、ことにこの作品では、女主人公の顔は、日常性の中から終りの死出の化粧でまったく次元を絶した女性に変るところが重要なので、メーキャップの芸術的効果が必要とされたからである。 かうしてすべてのスタッフがそろつて、四月十二日に堂木氏の顔で橋岡氏の能舞台が借りられて、その能舞台の上でリハーサルが行はれた。四月十三日にはカメラ・テストが行はれ、十五日にいよクランク・インとなったのである。予算の関係上、スタジオは二日間しかどってなかった。四月十五日と十六日の二日間で約百七、八十カットの映画をどうでもとってしまはなければならない。その忙しさは言語に絶した。そしてこの作品のラスト・シーンは、一旦血みどろになった二人の人物のその血が一瞬にしてぬぐひ去られ、情景も象徴的な、記念碑的な、別次元のものになる必要があったので、そのラスト・カットから撮影せねばならなかったが、俯瞰をそこ一ヶ所だけで使ふ必要上、クレーンと数人の技師がスタジオに連れてこられた。そのクレーンの到来の遅さがスタッフ一同の焦躁のたねになった。 やがて、のどかな春の陽の中を、古ぼけた撮影所の門からクレーンを乗せたトラックが入ってきた。そしてラスト・カットの撮影が始まったが、そのクレーンの操作と、セット初日のさまざまな準備とのために、最初の二、三カットですでに午前中の時間を費やしてしまった。われわれはかなり絶望的になった。どうしてこれであと二日間ですべてをやりおほせることができるだらうか。 われわれは急いでまた会議を開き、やりたくないことではあるが、いはゆる中抜きのプランを立てた。中抜きとは、同じゃうな照明の位置、同じゃうなカメラの位置、同じゃうな撮影のサイズのカットを先にとっておけば、それだけカメラを動かし、照明を動かし、役者を動かす手間が省けるので、時間の節約になるから用ひられる必要悪的技術である。そのためにスタジオの中には、大きな紙に撮影順のカット数が張り出され、その数字は一見混乱の極のやうで、にはかづくりのスタッフは一つ一つカットを仕上げていくことに追はれた。しかし寄せ集めの照明その他の技術者も実に献身的に楽しく働いてくれ、そこには私の望んだやうな静かな王国が実現されてゐた。なぜなら、映画の世界には一見集中的なセット撮影の間にも、外部にひしひしと映画資木の圧力が感じられるのが常だからである。一つの芸術創造が、こんなふうにいろいろな経済的条件や社会的圧力によって取り囲まれてゐると感じられる仕事は珍しい。フィルムの消費量にしろ、製作時間にしろ、外部では常に大資本が見張つてゐて、作者の芸術意欲を製肘(せいちう)してしまふ。もちろん私の場合でも、撮影時間については二日間といふ極端な制約があったかはりに、フィルムはかなり自由に使ってもらった。そしてカメラマンの芸術的意欲をなるたけ尊重して、渡辺氏も私の意図をよくくんでくれた。 暗い、ほこりだらけのスタジオの一隅で渡辺氏とたたかはしたディスカッションは忘れがたい。私は、新しい映画がカメラの技術的な新しい能力に頼りすぎて、機械的な技巧を作中の心理表現その他に使ふことを避けたかった。この作品では一カット一カットがカメラの明晰な対象としての「もの」でなければならなかった。そしてライトも、思はせぶりなエモーショナルな感情的なライトは避けて、いつも天の一角から来るやうな明晰な光線が支配し、その中であたかも能のやうな、亡霊も、現実の人間も、同じ現実の光りの中で相会ふことが何ら不自然でないやうな、そのやうな空間を設定したかったのである。したがつてカメラのオブジェも、よけいな神祇化や情緒化を避けて、一つ一つ明確な輪郭を持ら、明確なコンポジションを持ち、一カット一カットがあたかもカメラが現実からそのままに彫り出した彫刻的物体でなければならなかった。渡辺氏はよくそのことを了解してくれ、照明の人たちもよくその製作意図を理解してくれたと思ふ。そして舞台装置も真野氏の尽力によって、普通ならばいやがるやうな、ほんたうに純白のがっちりした能舞台ができあがつてゐた。普通映画のセットはこのやうな白の多用を忌避するもので、カメラの側から見ても、ハレーションを起しやすい技術的な悪条件に耐へなければならない。しかし、私の脳衷にあったイメージはあくまでもそのやうな白と黒の効果であったので、この作品の全部を通じて一度もハレーションを起さずに、白と黒の効果をかっちりとっくつてくれた渡辺氏の美しいカメラには驚嘆のほかはない。 撮影は、中尉の切腹まではすべて中抜き中抜きの濫用でいったので、場合によっては混乱を来たしたところもあるけれども、すべて一人一人がゆつくりものを考へるひまもないほどの超スピードで進められていった。 そして昼企や夕食の時間になると、藤井氏と私との間では弁当代についての議論がたたかはされた。私はせめて弁当は腹いつばいうまいものをたべたかったが、この厳格なプロデューサーは弁当代ですら節約しなければならないことを教へた。そして、藤井氏自身もプロデューサーとしていまだやったことがないことであるが、弁当の手配にまでかけずりまはらればならなかった。撮影現場ではたえず、あと何カットで晩飯になるかとか、今日中何カットいくかといふ予想がたたかはされた。いつでも映画のスタジオには不思議な人物がゐて、たとへば照明主任の一人が、今日は何カットしか進まない、といふとそのとほりになってしまふやうな、もの知りがゐるものである。それはセット初日その他の撮影の諸条件と演出家の個人的な習慣をのみこんでゐる人の玄人の判断であるが、今度の場合は、プロデューサーとカメラマンを除いて、すべて素人の一団であるから、予想はひとつもつかなかった。夜食の時間には、大映撮影所の演技研究所長の冬木映彦氏が、陣中見舞に来てくれて、みんながきつねうどんの湯気を吹き吹き喰べてゐるあひだ、いろいろと激励をしてくれた。 同氏は撮影所名物の、映画の鬼ともいふべき人で、私が大映映画に出演したときも、どれだけこの人に励まされ力づけられたかしれない。自分の出場が終つて、どてもダメだったとガッカリして、撮影所の庭を歩いてゐると、どこからともなく現はれて、肩を叩き、「大丈夫ですよ。いいですよ。自信を持つておやりなさい」と言ってくれたのはこの人だけだった。大映の俳優たちは、みな何らかの形で冬木氏の世話になつてゐる筈である。 今度の鶴岡嬢も、氏の教へを受けた生徒であるから、氏がおもしろい形の髭を備へた温容を、このスタジオヘ現はしてくれたことは有難かった。第一日はそれでも夜十一時に撮影がとれて、それぞれ帰つて、興奮のさめやらぬうちに眠りについた。結局第一日は朝の九時から夜の十一時まで働いて、かなりな超過勤務になったが、次に待ってゐた第二日はもつともつと働かねばならなかった。といふのは、朝の九時からあくる朝の四時までかかつてしまったのである。しかし不思議なもので、撮影第二日にかかると、撮影合間のセットの整備のあひだには、みんながうららかな日射しの下へ出て日なたぽつこをする余裕もあったし、冗談の一つも出るやうな気分になったにもかかはらず、撮影は順調に、驚くべきスピードでカットからカットヘと進んでいった。 そのやうな暖かい春の陽であるのに、スタジオの中は身をさすやうな寒さであった。私はいまでも、あの血の海に浸つてゐたときの恐ろしい寒さを忘れられない。そして撮影がスピードが増すにつれて、われわれはだれが独裁者であるといふことなしに、自由に議論をたたかはしながら撮影を進めたが、それが喧嘩腰のディスカッションになることさへあっても、根本的には何ら感情の衝突なしに和気あいあいと運ばれた撮影であった。 二日目の夜、やつと撮影がすんだあとで、字幕をとる段階になつて、手はくたびれ果て、目はくぼみ、みなものを考へてゐる能力はなくなつてしまった。 私はここで白状せねばならぬが、いま公開されてゐる字幕と別の字幕をそのときとってゐたのである。私はせめて帽子を深くかぶった自分を、ミスティフィケーションから自分と見せないことに楽しみを感じてゐた。私は牧健児といふ架空の名前をこしらへ、おそらく俳優としての私は人に見られないと信じてゐた。そこで字幕は、俳優の名前だけは私の名前でなく(それが原因で、あとまた字幕をつくり直さねばならぬ羽目になったが)英語版もフランス語版もそのやうな形で字幕を繰つていった。しかし何度かスタッフ内の試写の結果、人間はいくら顔を隠しても、日常動作のくせが現はれるものだとわかり、そのミスティフィケーションは無効に帰した。 全体の撮影経過を述べるど、前述したやうに、四月十五日の撮影第一日は、午前中ラスト・シーンの俯瞰がわづか二カットのみで、午後になつて六六カット進み、十一時に終了した。第二日は、午前八時にスタジオに入って、午後三時過ぎに第三章を終り、夕食前に血糊を使ふ前の切腹シーンをとった。夕食後切腹シーンだけが一時間半で終了し、第五章まで終ったのは夜中の十二時過ぎであったが、それから字幕の撮影だけで朝の四時まてかかったのである。午前六時半に私は一旦ホテルに帰った。そしてあくる日の十七日の夜六時半に総ラッシュを見にいつて、四月二十一日には再び大蔵映画で粗つなぎの試写を見た。編集の段階は専門の編集マンにまかせたので、私にはとても編集の段階まではタッチできなかった。現に映画界でも厳容に編集を自分でできる監督は、黒沢明氏のほか何人もゐないといはれてゐるくらゐの専門的技術なのである。撮影後最も感動し、興奮したのは、いよいよ録音の段階に入ってからであった。それは四月二十七日のことで、このときの興奮はいまだに忘れられない。四月二十七日は夕方から葵スタジオで、スタッフ全頁と音入れに立ら会った。ワグナーの古レコードは、そのまましっぽから計算して、映画の継続時間の長さに切っただけの分量を録音し、それをただ完成した絵に結びつけただけなのである。私はこの効果について漠然とながら自信があった。あのワグナーのどこまで続くかわからないやうな不思議な音楽は、どんな一小節にも任意の感情をはめ込むことができると感じられ、ことにトリスタンの「愛の死」(リーベストート)の音楽的効果は、どこをとつてみても、この作品と符合するはずであった。私は映画製作に当つて、それ以外はすべて計算づくでいきながら、音だけについては自分の計算をまったくはづしてみたかった。つまり前衛芸術のハップニングの効果をねらったのである。したがつてこの音入れの実験はスリルに満ちた実験であったが、いざ偶然の音を合せてみると、場面場面に異常に符合して、並みゐる人々を驚かせた。その偶然の効果は不気味なほどで、たとへば中尉夫人が良人の帰りを待ってゐるときに、トリスタンの牧笛の響きがあたかも連隊のラッパのやうに聞えてきて、二度目のラッパとともに中尉が帰宅の姿を現はすのである。また帰つてきた中尉の前で、中尉が沈思黙考てゐるときに、中尉夫人が自分の決意を示さうと形見の畳紙(たたう)をどりに立ら上がるときに、あたかも中尉夫人の決意を裏づけるやうな強い音の効果が入ってくる。すべてはどんなに注文しても得られないやうな音楽効果で、ただ一つ計算に類するものがあるとすれば、それはラスト・シーンの幻想場面 とトリスタン全曲の終りとの当然の符合であった。私は映画の音の中で、うめき声や、人間の生理的な音を好かない。このベッド・シーンや切腹場面でも、そのやうなものが物語の統一的な純粋な効果をどれだけ妨げるかを私は怖れてゐた。ワグナーの音楽はすべてそれを解決した。そして切腹の苦痛さへ、そこでは不思議な音楽のエロチックな陶酔の中に巻き込まれ、ましてベッド・シーンは音楽のおかげで最高度に浄化された。 もともとこの作品の構成は次のやうなものであった。まづ清浄な能舞台に女主人公が現はれ、女主人公の無言劇のうちに悲劇の予感が静かに用意され、そこへ良人が帰つてきて、良人との間の無言の対話も、礼儀正しい、緩慢な、単純化された静けさのうらに行はれ、次に一転してベッド・シーンに入ると、人間の肉体の各部分が映画の大写しの技巧によって一種の抽象主義を形づくり、いままでの能舞台の効果はまったく除外されて、画面いつばいに、人間の肉体と光りとの組み合せによる抽象主義的な連続画が展開され、次に切腹場面の前半は、儀式的なゆったりとしたサスペンスによって、ごくゆるやかに危機が盛り上げられ、つひに切腹場面に至ると、象敬的な能舞台では予想もされず、想像もされないやうな、あくまでも生理学的にリアルな切腹場面が現前、いままで決して血の流れるはずのないやうな舞台に、あたかも木もののやうな血が噴出して、そこに象徴主義とリアリズムとのショッキングな衝突が企てられ、その生理学的なリアリズムの極致に至って、再び画面が転調して、舞踊劇のやうな動きで、中尉夫人の死出の化粧が様式的に長々と写し出され、中尉夫人が良人の死骸にわかれを告げて、みづからも自害する瞬間に、すでに高められつつあった次元は一段と飛躍して、別次元の、死と美の結合した世界へ拉致されるといふのが全体のプランだったが、これをすべてワグナーの音楽が解決してくれたのである。 作品ができあがつて、われわれはこの公開についていろいろと話し合った。私はどうしても外国の評判を先に知りたかった。なぜならば、前にもジャーナリズムの評判を怖れたとほりに、この作品に限つて、作家の道楽とか、片手間仕事として、ふざけ半分に評価されることを好まなかった。何といつても作家である私がかういふ仕事をすれば、作家であるといふ先入主で見られることは免れがたいことであるし、私といふ人間自身が、世間の信用のはなはだ稀薄な、愚かしいことをやりかねない人間と思はれてゐるので、この作品の世界から人々はまづ弾き出されてから、笑ひ出すに違ひない。そこへいくと、外国人は私について何らの先入主ももたずに見てくれるから、さういふ人の客観的な批判を第一に聞きたいと思ってゐた。しかし外国に出すにつけても日本の映倫を通さなければならないし、その点で、映倫を通してから外国に出すといふ手続きについては異論はなかった。 しかしそのときたまたま不幸なことに「黒い雪」事件が起つてしまった。これは複雑な事件で、いろいろ映画界の病弊が集中して現はれたやうな事件であるが「黒い雪」といふ作品自体については、私には私の考へがあり、あそこに武智鉄二氏の一つの真摯な芸術的信念があることは疑はない。それはそれとして、世間の反応をこの作品にまで及ぼされることは、スタッフ一同が最も怖れるところであった。 そこでわれわれは、川喜多かしこ夫人と永田雅一氏を二人のアドバイザーとしてお願ひすることにした。永田雅一氏のところに私は会見を申し込み、氏に、私はかういふものをつくったが見てくれないかといふことを申し入れた。永田氏はさつそく快諾されて、大映の試写室でこの作品を見てくれることになった。 この試写会のとき、私ははじめて映画の専門家に自分の作品を見せることで緊張してゐた。私は永田氏一人に見せたいと思ったにもかかはらず、氏は社内の重役をすべて招集して、その人たらの前で「憂国」は上映された。私は永田氏の隣にすわってゐた。映画が終つて、画面が明るくなると、隣の永田氏は私のはうへ顔を向けてにやりとした。私は何をいはれるかと恐れをののいたが、氏の最初の一言は「三島君、恐れ入ったよ」といふ言葉であった。 それから氏の大演説が始まった。氏はかねて、映画といふものは金でもなく、何ものでもなく、つまり才能の所産だといふことを信じてきた人であるが、結局氏は最低の費用で、氏にいはせると「三十分間椅子にくぎづけにさせるやうなすごい迫力の映画」ができたことに感動したらしいのである。 私は、氏の率直な意見もさることながら、かういふ突拍子もない作品にすぐ正直な熱烈な反底を示してくれる氏の映画人としての率直さを最もうれしく思った。映画人に限らず、文壇人に限らず、毛色の変った作品を見せるときに、躊躇してあたりを見まはすやうな風潮があまりに濃いのに、氏はいきなり作品に飛び込んで、そこから氏自身の問題のさまざまの回答を見出して、それについて率直に喜んでくれたのである。私はこれが永田氏の映画人としての最大の美質であると考へた。 川喜多かしこ夫人はこの作品について、フランスのさまざまな小プロダクションによる芸術映画の経験から、いろいろな面倒をみてくださることになった。夫人のおかげでシネマテックヘ連絡がとれることになり、私はたまたま九月から外国旅行の予定があったので、パリのシネマテックでこれを上映するといふ準備が夫人によって整へられた。 すでに五月から秋までの間作品は世間に隠されてゐたけれども、ごく一部のスポーツ新聞社では、どこから漏れたのか、この作品についての評判を聞いてゐた。私は、このスポーツ新聞の二つの社に、どうか発表の時機まで待ってもらひたいと頼んだ。この二社はずつと信義を守つて発表を控へてくれたにもかかはらず、ことしの一月になって東京新聞のすつば抜きによって、はからずもこの二社の信義を破ることになったのは、返す返すも残念といはなければならない。 私は日本公開についてさまざまに逡巡するところがあったが、まづ外国で見せてといふことに頭がいつてゐたので、ひたすらシネマテックの公開を楽しみにしてゐた。私は九月の下旬にパリに到着したが、パリでは「宴のあと」の出版準備で 何かと忙しかった。その間を縫つて、パリ在住の黒田初子さんの尽力によって、シネマテックの試写の準備が進められてゐた。また東和映画の仕事を代行してゐる東宝のパリ駐在所員の南畝宏氏がこの仕事に協力してくれることになった。 私は黒田さんと南畝(なうね)宏氏の前で、私の作品がいきなりシネマテックの一般番組に組まれることは困るといふことを申し出た。私にとってはこの爆弾的な作品がめちゃくちゃにされることが怖ろしかったのである。そこで、一般番組といふよりも、シネマテック内のさらに試写といふ形で、映画関係者を呼んで公開されることになった。つひにその日が近づいてきて、私はたまたまボルドーから五時間の汽車で帰り、ホテルに落ちつくまもなく、シャイヨー宮のシネマテックに出かけた。 シネマテックは周知のとほり、このたび来朝したラングロア氏によって主宰された、世界最大のフィルムの宝庫であって、そこではフランス政府の援助もあり、次々と貴重なフィルムが公開され、一般公開に先立つて、映画愛好者のために会頁制度ないしは招待制度で毎日の番組が組まれて、日本映画も未公開のものもそこで試映されるのがならはしである。私は古いきたない試写室のやうなものを想像して行ったのであるが、巨大なシャイヨー宮の一端を占める、美しい緑の木立の中の入口を入っていくと、そこには思ひがけない近代的な設備の映画劇場があって、三、四百のりつばな椅子に、りつばなスクリーンに、最もモダンな映写設備が整へられた劇場であった。 たまたまパリヘ来てをられた川喜多夫人も、忙しい中をさいて、その試写会に参加された。フランス人が三分の二、日本人が三分の一ほどの観客であったが、私は試写が始まる前、心は落らっかず、画面を見てゐるのがこはかった。フランスの観客はらよっと気にいらないと足で床を踏み鳴らしたり、口笛を吹いたり、途中で出ていくことが普通なのであるが、三十分の映画の間、だれ一人出ていく者もなく、静粛に見終つて、自然に拍手が起った。廊下へ出てみると、川喜多夫人が大成功ですよといつてくだすった。私は何が大成功なのかわからなかったが、南畝氏がやつてきて、南畝氏自身が非常にこの映画に感動したこと、及びこの上映の直後ただらに配給業者の二つのオッファーがあったことを告げた。日本映画も再々ここで上映されたが、最初の試写のあとでいきなり二つのオッファーがあるといふのは珍しいといふことである。のみならず、そこには若い映画青年たちがゐて、カメンカとぃふある映画プロデューサーの息子の学生はこの映画に感激して、私の手を握つてくれた。 私ははじめてこの映画に対する客観的な評佃と、何ら先入主のない人たらの喜びを目の前にして、仕事が報いられたやうな気がした。私は、南畝氏を混へて、青年男女のフランス人を七、八人自分のホテルに連れてゆき、シャンパンを抜いて乾杯して、彼らの意見を聞いた。 カメンカ君がいふには「良人が切腹してゐる間、妻がいふにいはれない悲痛な表情でそれを見守りながら、しかも、その良人のはげしい苦痛を自分がわかつことができないといふ悲しみにひしがれてゐる姿が最も感動的であった」といつてくれたときに、原作の短編を読んでゐないにもかかはらず、物語のキーポイントがわかつてゐてくれることに感動した。そして鶴岡嬢はフランス青年たちの心を非常に魅惑したやうであった。 私は商談は南畝氏にまかせて、パリを発ち、やがてバンコックをまはつて、十月末に日本に帰つてきた。そして藤井氏とまた相談した上で、ツールの国際短編映画祭に出品することにきめた。 ツールの国際短編映画祭は短編映画の映画祭としては世界で最も高い水準のものといはれてをり、そこの予選委員会を通過することさへむづかしいといふことであるが、とにかく藤井氏がこの作品に非常に自信をもつてくれてゐたので、私も出品する決意がついた。これについてはユニフランスのジュグラリス氏も大いに協力してくれ、氏は能の研究家でもあったので「憂国」の能形式の演出をたいへんおもしろがつてくれた。しかし何分切腹場面のショックがはげしいところから、私は映画祭出品については切腹場面の一部分をカットしてもいいといったのであるが、氏は自分の思ふままにこの作品のほんたうの意図を出すことが大切だ、と、逆に説得するしまつであった。もらろんシネマテックに 出す以前に映倫は通過してゐた。但し国外用の審査といふことで、国内用とは違ふ審査基準で通してくれたものと思はれる。 ツールの国際映画祭には、日本からも本年度五本の短編が参加を申し込まれてゐたやうであるが、一月中旬の予選委頁会で、そのうちから一本だけ、すなはら「憂国」が選ばれた。そして競争場裡に入った作品としては、世界中から出品された三百三十三本のうらの四十本のコンペティション作品に入ったわけである。審査委員長のピエール・バルバン氏がこの作品を非常に好いてくれてゐるといふことも耳に入ってきた。後に入ったツールの新聞の記事を見ても、フェスティバルの開会を告げる新聞記事が、すべて「憂国」のスチール写真だけを掲載して、この日本の「憂国」(愛と死の儀式)がただショックを与へるだけでなく、また驚異を与へるものであるといふ評判である、と予告されてゐた。 開会日の「ヌーヴェル・レプブリック紙に、ベルナアル・アーメル氏が次のやうに書いてゐる。 「さて、最後に三島由紀夫の『愛と死の儀式』(憂国)による、電撃のごとき一打がある。率直に言って、この映画を見るには細心の注意を要する。これは悲劇、それも真実な、短い、兇暴な悲劇である。そしてこの作品は、近代化された『能』形式の下に、ギリシア悲劇の持つ或るものを、永遠の詩を、すなはち愛と死をその中にはらんでゐるのである。(梗概略)この作品は、われわれの心を思はぬ方へ連れ去つてゆくが、全く驚くべき法外の掘り出し物だ。この『能』は民俗的な琴の伴奏の代りに、正にワグナーの『トリスタンとイゾルデ』を伴奏にしてゐるのだ!驚くべきことに、ワグナーはこの日本の影像(イメージ)に最も深く調和してゐる。そしてこの日本の影像の持つ、肉感的であると同時に宗教的なリズムは、西洋のこれまでに創り得たもつとも美しい至福の歌の持つ旋律構成に、すこぶる容接に癒着してゐるのである」 いよいよフェスティバルの最終審査の日が近づいてきた。そのころUPIやAFPのニュース が入り、いよいよ「憂国」が映画祭で上映された日には、多くの観客が切腹場面に、ショックのために失神したり、気分が悪くなって中座したりするとぃふセンセーションを起したといふことが報ぜられた。そして傑作であるといふ評価もあり、受賞圏内に近づいてゐたかのやうに感じられるのであった。 しかし結果的に残念ながら「憂国」は受賞を逸した。賛否両論がはつきり五〇%、五〇%にわかれ、グラン・プリを次点で逸したのである。最も熱狂的な支持者としては、審査員の一人であって、英国の短編映画の草分けといはれるベイジル・ライト氏が絶賛したほか、フェスティバル側のバルバン氏の支持も強く、またフランス・シネクラブの一派が熱烈に迎へてくれたやうである。 一方では、南畝氏のおかげてフランスの商談も進められ「蜘蛛巣城」「生きる」などを買ったスチュディオ43社がこの作品に対して熱心な商談を申し込んできたほか、シテエル・フィルムか引合ひの電報も来た。 一方では 、東京新聞のすつば抜きによって、日本発表があたかもフェスティバルの審査の始まる前に行はなければならないはめになった。そしてそれはたちまち週刊誌の記事になり、グラビアになった。私はどうしても日本公開に踏み切らなければならない場所に立たされた。あとは運を天にまかせるばかりである。 たまたまツール映画祭の審査が報じられる日に、私は藤井氏と銀座で会った。藤井氏は私と会ふ間も方々の外国通信社へ電話をかけ、それがつひに受賞を逸したことを知らなければならなかった。 あれほど冷静沈着な藤井氏のこれほどがつかりした顔を私は見たことがない。私自身もツールに出品できただけでも仕合せであると思ひ、はじめは受賞の期待も一切もたなかったのに、途中の外電で受賞の可能性が生じてから、かなりあたふたした心境で日々を過したことも否めなかった。そしてこの一年、いや、これから先も映画「憂国」についての確信を維持し、自信を保ち、信頼の揺るがない唯一の人であるところの藤井プロデューサーに向つて、私は酒を欽みながら、こんなふうに話した。 「藤井さん、われわれは再び十七、八歳に戻った経験をしたんぢやないだらうか。つまり恋文を出して、相手の女がそれを破つて捨ててしまったかもしれないのに、ただひたすらその返事を待ち、彼女が読んでどう感動したかといふことに、毎日毎日をはらはらとして送ったあの時代だ。こればかりは金で買へない経験で、われわれの年齢になつてからこんなはらはらした経験をしただけでも、人生から何か大きな果実をもらったといふ気がするぢやないか」 そして私はこれからもまた、もし甘い果実ならよいが、すつばい果実やにがい果実を次々と好んで口に入れたいど望むであらう。 〈初出〉「憂国映画版」・新潮社・昭和41年4月  表記は新潮社「決定版 三島由紀夫全集」によりました。 映画『憂國』DVD化について 映画『憂國』は、一九七〇年に三島由紀夫が逝去後、ご遺族の強いご希望により上映が禁止となり、上映フィルムは全て回収、焼却されました。永らく、人の目に触れることのない、幻の作品と言われることとなりました。 ところが、状態の悪い海外版のフィルムから作成したと思われる劣悪な画質の海賊版映像が流失し、違法ビデオパッケージとなって、その希少価値から法外な高値で取引されているという事実があり、プロデューサーの藤井浩明氏は憂慮していました。 藤井氏は、ネガ原版だけは焼却せずに保存しておいて欲しいと三島夫人に頼み、夫人は三島家にあった茶箱にその一式を収めました。しかしその茶箱がその後どのように保管されているのか、はたまた既に処分されてしまったのか、その行方は、藤井氏にも杳として知れないままになっていました。 時を経て、三島夫人が亡くなった後、三島邸で整理をしている折に一つの茶箱が出てきました。三島夫人の旧姓である「杉山」と記されたその茶箱を開けてみると、中から、映画『憂國』にまつわるフィルム原版の全てが、大量の乾燥剤と 一緒に丁寧に保管されていました。フィルム原版は、各映画会社もその保管については神経を使い劣化を防ぐ努力をしておりますが、一般家庭で三十年以上も保管されていた『憂國』のフィルム原版は奇跡的に良好な状態で発見されたのでした。茶箱(中に錫と思われる金属板の層がある)に保管されていたのがよかったのではないかと言われています。 良好な状態のこの映画『憂國』を、いつの日にか世に出したいという想いを藤井氏は抱いていました。三島家の寛容なご理解のもと、平成十八年、DVDというかたちで、新潮社の「三島由紀夫全集」の補巻に、また東宝からもセルDVD発売することが決定されました。 DVD化の作業は、東京現像所にてテレシネののち、デジタル処理にてレストアすることで、傷、ゴミ、スプライス糊跡等を現在の技術を似てして可能な限り消し込み、劇場公開時のクリアな画質を目指しました。 音については、本篇では台詞が一切なく、ワグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」の音楽部分のみの箇所が劇中使用されていますが、これは三島由紀夫のこだわりで、ニ・ニ六事件の起こった年である一九三六年に発売されたレコードを捜し出して使われています。レコード盤特有のスクラッチノイズが映画の音原版にも多く入っており、これをデジタル処理にて除去することは可能でしたが、公開時も入っていたこのスクラッチ音は敢えて処理せずそのまま収録いたしました。 また、日本だけでなく海外で非常に評価が高い三島由紀夫が自ら製作・脚本・監督・主演をしている本作は、当時より海外で大きく注目されており、映画製作もそれを充分に意識して同時に海外公開版を作成していた経緯があるため、今回、特典映像として、巻物の字幕部分が異なるだけではありますが、状態のいい日本版の本編映像を付加して、米国公開版、仏蘭西公開版を完全復刻して収録しております。 本作映画『憂國』は、一九六五年に製作、翌六十六年四月に日本で公開されました。アート・シアター・チェーンの新宿文化と日劇文化、のちに大阪の北野シネマなどで公開。同時上映はルイス・ブニュエルの「小間使の日記」でした。当初日本アート・シアター・ギルドが配給し、のちに東宝と共同配給というかたちが取られた本作は、当時、短編映画として空前のヒットを記録することとなりました。 今回のDVD化にあたり、プロデューサーの藤井浩明氏から二つの要望が上がりました。一つは、三島由紀夫が本作について記した「製作意図及び経過」という原稿を必ずパッケージに入れて欲しいということ、もう一つが、その内実は特典映像の対談で触れられていますが、映画本篇では表記されていない全スタッフのクレジットを入れて欲しいというものでした。 「製作意図及び経過」は三島由紀夫が本作を製作するに至った想いが明瞭に綴られております。本篇と併せてご覧いただくことで、作品世界をより深くお愉しみいただけることと思います。 東宝株式会社映像事業部 以上引用終わり