しあわせみんな 三号店

日本人は太古の昔から「しあわせみんな」という素晴らしい知恵をもって生きてきました

◎ニワトリを絞める いのちをいただく

◎ニワトリを絞める いのちをいただく ひと昔前、まだ家がまばらに立っている頃、家の周りに塀が巡らされていることも少なく、家の裏には小高い丘があり、竹藪や背の低いブッシュが生えていました。 その頃、どこの家庭でも、家で食べる「ニワトリ」を絞めるのは父親と決まっていました。場所は裏庭。今夜はニワトリ のごちそうとなると、父親がニワトリを絞めに裏庭に行きます。子供たちは物陰に隠れて、こわごわと父親の様子を見るのです。そうして、ニワトリが「ギャー」という断末魔の鳴き声をあげると子供たちは耳をふさいで震えます。 それからしばらくすると、舞台は台所に移ります。ふだんは、あんなに優しい母親が包丁をもって、あのニワトリを血だらけでさばいているではありませんか! その様子を物陰から子供たちがおそるおそる見ます。その一つ一つが感受性の高い子供のこころに深く焼きつき、命の尊さ、その生命をいただいて生きる人間というものをおぽろげながら知るのです。 やがて、あのニワトリがホカホカの肉片となって食卓に上がります。子供はそれを複雑な面もちで見て、口にします。もごもごと口を動かしながら、子供はあの断末魔の声、毛の抜けたボッボツの肌、血だらけの肉を思い起こしているに相違ありません。 自然との共存、人間と自然との関係はニワトリを裏庭で絞め、血だらけでさばく一連の行動とともにその子供たちに理解されるのです。 最近はニワトリを裏庭で絞めることはなくなりました。かつて、血だらけのニワトリをさばいていた親は居間のソフアに座ってテレビを見ています。子供が「お腹が減った」と言いますと「冷凍庫の〇〇をチンしなさい」と言うだけです。そして、たちまちのうちに四角い肉片が皿の上にホカホカになって出てくる。子供は、その四角い肉片がかつて生きていた動物の一部である、まして、生まれてこのかた、都会に住み、ニワトリという動物すらほとんど間近に見たことがない子供にとっては、チンをした肉片が、生きものの一部であり、自分が、命をいただいて食べているという実感を得ることは難しいでしょう。 かくして、子供は冷凍食品をほおばり、テキストを小脇に抱えて塾へと走りだし、現実を喪失した世界へと旅立つのです。 かつて人類は食糧を得ることを最大の目的として家族を維持してきました。親は、弓矢を持って狩りにでかけ、畑を耕し、菜を育て、豆を煎りました。子供は少し大きくなると親の手伝いをしたり、あるいは田畑で両親が働いているまわりを飛びはねていました。 そうして一日が過ぎ、家族全員で夕飴の食卓を囲むのです。収穫と、その日一日の安全を神に感謝し、そして遠慮がちに糧(かて)を口に運びます。目に見るもの、手に触るもの、そして口の中で感じられるものは、昼間のあの「もの」なのです。 『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊) 20231010