「環境」を失うことは「感動」を失うこと 一七歳の犯罪が続き、それも命を何とも思っていないような事件が続きました。もう過去のものになったと思っていた惨殺事件もあとをたちません。しばしの平和で穏やかな時代は、あっという間に去ったようにも思われます。 安全で安定した社会に住んでいると確信してきたわたしたちは、うち続く少年の事件におののき、そして、にわかに「命の大切さ」が強調されています。 二〇世紀は、自然とわたしたちの距離を拡げ、動物の命に対する感受性を奪ってきましたが、それは人間にまで及んでいます。 人間が自らの命の尊厳を拒否するきっかけになった事件、それはアメリカ南北戦争にさかのぼらなければなりません。 当時、アメリカの大統領は奴隷解放で有名なリンカーンでした。その時代、それまでのおもな武器だった小銃に代わって、一度に大量の弾丸を発射できる「機関銃」が発明されました。当時の機関銃はそれほど性能も良くはありませんでしたし、第一、故障ばかりしていたので時々、大失敗することがあったようです。敵が機関銃をすえた兵士の目の前まで攻めてきて、さあ、機関銃で掃討しようとした瞬間、機関銃が故障したのではたまりません。あえなく機関銃座は敵の餌食となり、そこにいた兵士は皆殺しになります。 そんな不完全な機関銃という武器も二〇世紀の最初の大戦、第一次世界大戦までに改良され、本格的に使用されるようになりました。 それまでの戦争では、ステッキとサーベルを持った将校が悠々と名乗りを上げてから兵士の突撃が始まる、という戦術がとられましたが、機関銃の出現はそれを大きく変化させました。そして、それよりなにより、機関銃がもたらした最大のものは戦場での兵士の心理的な影署だと言われています。
職業軍人や傭兵が中心だった戦争が終わり、徴兵制のもとで戦われる近代戦では、きのうまで市民だった人が召集令状一枚で、戦場に狩りだされるのです。いくら、お国のため、戦場とはいえ人間を殺すことに大きな抵抗感があったのは想像にかたくありません。 その心理は戦場から祖国の母親に出す手紙に見ることができます。イギリス軍のチベット侵略に参加したノーフォーク連隊のハドウは母親への手紙に、 「ぽくは一方的な虐殺に気分が悪くなって、撃つのを止めました」 と手紙で訴えています。たしかについ最近まで田畑で農業を営んだり、会社に勤めている人が、戦場での、非人間的なす さまじさを想像することは難しいでしょう。 日露戦争の時、激戦の二〇三高地の塹壕(ざんごう)で、日本兵とロシア兵が相撃ちで死んでいきました。 ロシア兵の短剣は日本兵の腹部深く刺さり、日本兵は最後の力を振り絞って敵兵の首に食らいつき、右手の指でロシア兵の両目を突き破って死んでいた、という壮絶な戦闘の様子が報告されています。たしかに、実際の戦闘では、戦いの作法などありません。特に、白兵戦ではともかくも敵を殺さなければ自分が死ぬのです。 ところが、機関銃が多用されるようになると、それまで母親に人を殺すことの辛さを訴えていた兵士の手紙が急激に変わってきます。 「昨日は一五〇ほどの敵兵を殺しました」 とぶっきらぽうで、無味乾燥な手紙が母親の手元に届きます。このようにして、人類がつぎつぎと戦争を繰り返すたびに、人間が人間を殺す感覚は徐々に希薄になってきました。 日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊) 20231016 43