しあわせみんな 三号店

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それでも太陽電池が環境に良いと錯覚する理由が二つあります。

それでも太陽電池が環境に良いと錯覚する理由が二つあります。 第一は、太陽の光は無限で、しかも煙を出したり、二酸化炭素を発生したりしないからです。簡単に言えば太陽の光は「無料」で「無限」、そして 、石油のように煙や二酸化炭素を出さないのですから「無公害」、良いことずくめのように見えます。 一方、石油を燃やす電力会社の方法は、石油を買う費用が必要ですし、石油の枯渇の恐れもある、さらに、煙も出るので公害を防止する設備も必要です。たしかに、あらゆる点で太陽電池が良いように見えます。 では、なぜ理想的と思われる太陽電池のほうが環境に悪いのでしょうか? それは、人間が電気を使うためには、単に「電気のもと(光)がある」というのではダメで、「現実に人間が電気を使える」ということでなければならないからです。それは、「電気を発生する装置」と「その電気を利用する設備」が必要とされます。



本(六九頁の)図で判るように、太陽電池を実際に使用するためには、単に電気を取りだす「シリコン」があるだけではダメです。太陽の光が弱いときに備えて電力会社からの電気も取りこめるようにしておかなければなりませんし、安全設備や直流交流変換も必要です。家庭で使う電気を太陽電池でまかなうには光を電気に変える「シリコン」はむしろ主なものではないのです。別の表現で言えば、太陽電池が環境に悪い理由は、電気を作るという原理的な方法としては良いのですが、電気を使うという工学的な点から見ると不利だということです。 つぎに、太陽電池には「補助金」がつきものですが、補助金と環境との関係を整理します。 「太陽電池は環境に良い」という前提のもとに、国民の税金から「補助金」が出ています。そして太陽電池が普通の電力に対して不利にならないように補助金の額を調整します。つまり補助金の意味合いは、「太陽電池が高いので、電力会社から電気を買うのが同じ程度になるように調整する」ということです。 これは、明らかに、「現境」という目的に反しています。 まず、「税金が出ている」ということ自体が「太陽電池の方がお金がかかる。したがって環境に悪い」ということを示しています。補助金が何パーセントでているかを見れば太陽電池がどのくらい環境に悪いかが判ります。 次に、「福祉と瑯境には税金を投入すべき」という意見があります。たしかに、福祉のように「可哀想な人を社会が助ける」ことに税金を使うのは論理が通っています。社会全体から集めたお金を可哀想な人に集中的に補助するのです。 しかし、「環境」とは「みんなで少しずつ我慢をして良い環境を作る」ということですから、みんなが払っている税金を「環境」という社会全体に関係するものに使うのは、論理が破綻しているのです。このようなことが公然と行われるのは、環境ということがよく理解されていないからでしょう。 環境と税金の関係がよく判っている人が、補助金という名の税金をもらって太陽電池を設置している家を見てどのように思うでしょうか。 決して「あの家は環境に配慮しているな」とは思いません。むしろ、「買うときに税金で補填してもらっているな。うまいもんだ」と思うでしょう。おまけに、その家の太陽電池で発電される電気を自分の家だけで使っているのもおかしいものです。 このように、「みんなで我慢する」という環境の基本を忘れて、自分のために税金をもらっているのに、本人は環境に良いことをしているということになるのは、太陽電池を使うことが環境に良いと本人が錯覚しているからで、悪気はないのです。 この矛盾は、もし太陽電池が本当に環境に良い発電であり、日本の家庭がこぞって太陽電池を使うようになったときのことを考えるとただちに判ります。ほとんどの家庭が太陽電池をつけると補助金はでません。税金を出す人がいなくなるからです。つまり太陽電池補助金は、太陽電池をつけること自体が特別な状態でなければ成立しない、それは「環境」という考え方と正反対なのです。 『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊) 20231023  70