しあわせみんな 三号店

日本人は太古の昔から「しあわせみんな」という素晴らしい知恵をもって生きてきました

第四章 自己満足でない「感動のある環境」で生活する エレベーターが「楽」から「苦」へと変わった分岐点

第四章 自己満足でない「感動のある環境」で生活する エレベーターが「楽」から「苦」へと変わった分岐点 時代は大きく変わろうとしています。 そのなかで幸福を見いだすことは、社会が変わるだけに難しくなってきています。豊かだけれども何か空虚な生活から逃れようと、「原始にもどれ」「貧乏暮らしが良い」では解決はしません。 「森の生活」や「環境にやさしい行動」は、それが「部分的な正しさ」や「自己満足」の世界であることに気づき、これも長い間、自分をだましておくことはできないのです。もちろん、「一人だけの閉じこもった生活」や、「ゴミをみんなで監視する生活」でもありません。 わたしたちの希望は、あくまで「豊かで」「明るく」「自由で」そして「悠々たる時間を楽しむ」、そういう生活です。 時代はあまりにも急激に、あまりにも大きく変化していますので、今までの発想を完全にひっくり返すくらいの覚悟は必要です。それで、やっと何とか一息つくことができるくらいにまではなるようです。 求められている発想の転換、明日の活力の源泉をさぐります。 最初に、人間が「辛い」と思う典型的なものとして「高いところへ昇る」という行動について「苦」と「楽」の関係を考えてみます。時代の変化が、これまで「苦痛」と思っていたことを、「楽しみ」へと変身させるからです。 紀元前二三六年にギリシャの科学者アルキメデスは、荷物の揚げ降ろしを行うのに、滑車付きの荷揚げ装置を考案したと記録されています。これが人類がエレベーターを使った最初です。それから長い月日が経ち、様々な荷物の揚げ降ろしのための機械が考案されましたが、いずれも人の力や家畜などの力を利用したものでした。そして産業革命後の、一九世紀前半、イギリスで蒸気機関を利用したエレベーターが考案されました。それでも当初はロープが切れたりする事故があとをたたず、「エレベーター使い」は勇気のある人しかできなかったと記録されています。 それを覆(くつがえ)したのが、一八五三年に開かれたニューヨークの万国博覧会に出品された「ロープが切れても落下しないエレベーター」、つまり安全装置のついたエレベーターでした。考案者は、後のエレベーター・メーカー「オーチス」の創始者になったエリシャ・グレーブス・オーチス。かれは自らエレベーターに乗りました。死ぬなら自分が死ぬ、という決死の実験です。 幸い、この公開実験は成功し、その後のエレベーターの発展へとつながりました。 一方、エレベーターと親戚関係のエスカレーターは「高いところに楽に行く」機械として登場、オーチスの公開実験の七年後に、アメリカのシーバーガーが考案しました。エスカレーターとはラテン語の「スカラ」(階段という意味)と、「エレベーター」を組み合わせて作った考案者の造語で、いわば「階段式の昇降設備 」といってよいでしょう。 日本では大正三年に「自動階段」という名前で東京・上野での「大正博覧会」に展示され、続いて日本で最初のエスカレーターが東京三越デパートに設置されました。当時大勢の人がこのエスカレーターに乗るために三越デパートを訪れ、長蛇の列をつくったと記録されています。現在では全国で約五万台が使われていて、高いビルばかりではなく、駅の階段や二階建てのスーパーでもエスカレーターが設置されるまでになりました。 このようなエレベーターとエスカレーターの開発の歴史を振り返ってみると、一つ一つの進歩は夢があり、社会としても技術としても何の問題もなかったように見えます。むしろ、エレベーターやエスカレーターができたことによって、高層ビルの利用が促進されたばかりではなく、デパートで買い物をして重たいものをもって足を引きずりながら階段をのぽらなくてもよくなったし、足が弱くなったお年寄りも背の高いタワーに昇って、眺望を楽しむことができるようになったと言ってもよいでしょう。 その意味でこの二つの乗り物は「部分的な正しさ」はいいのですが、エスカレーターが増えた状態を一つの「環境」としてとらえるとその意味は別のものになります。 『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊) 20231116 130