しあわせみんな 三号店

日本人は太古の昔から「しあわせみんな」という素晴らしい知恵をもって生きてきました

飢餓状態が生命の生存本能の起源

飢餓状態が生命の生存本能の起源 栄養と動物の平均寿命、免疫力などの実験結果は生物というものの本質を教えてくれます。もともと栄養学がない動物には「満腹感」によって必要な食糧を採れるようになっています。 その点からは満腹になることが動物の命を保つのに一番良いと予想されるのです。ところがこの節で説明をしましたように、満腹になることはあまり動物の体に良いことではないのです。 地球上の自然と動物の有り様をじっくりと観察してみると、一番、住みやすい緑豊かな地上や海のなかばかりではなく、土のなかにも砂漠にも北極海の氷の下にも多くの生物が棲んでいます。鳥や昆虫は空間を棲処にして、生物は地上のあらゆるところで繁殖していることが判ります。 一方、生物は太陽の光だけを頼りにその生命を保っていますが、太陽の光は一定で生物が増えても変わることがありません。ところが生物の方は旺盛な繁殖力を持つのでできるだけ、その数を増やそうとします。そのようなバランスの上に成り立っているので、生物は常に「太陽の光で生きることができる最大限の命を保つ」という秩序を形成します。 太陽の光が食糧の限界を決めますから、その範囲で繁殖すると、どの生物も限界までお腹をすかせた生活を送ることになるのです。つまり、生命とは「常に食糧が不足し、それを充足するように頑張る」という宿命を負っているとも言えます。 動物としての一員である人間もこの原理に当然のように支配されます。人間も常に食糧不足の状態にあって、それを求めていくのが正常な姿のようです。もし、現在の日本のように四〇パーセントも食べ残している状態は正常な生物の生活ではないのは明らかでしょう。 自然、環境、食糧と様々な面を考えますと、現代の環境問題は互いに深いところでつながっていることを知ることができます。 二〇世紀に人間は巨大な科学を駆使して、欲しいものを何でも手に入れることができるようなりました。遠くに行こうと思えば自分の脚を使わずに自動車や飛行機が運んでくれます。暑い日に汗をかきたくなければクーラーのスイッチを入れればたちまちに涼しい高原です。遠い、南アフリカの珍しい食べ物も自宅からほんの少し歩いてデパートまで行けば手に入れることができます。 そのようにして、人間は「欲しいものは何時でも」という環境を作ったのです。それは「部分的には正しい」ことのように感じられます。遠いところに行くのに自分の脚を使うのと自動車とどっちが良いか?と聞くと、誰しもが自動車と答えるでしょう。暑くて苦しい日に涼しい高原に行こうと言ったら反対する人はいないでしょう。 そして、毎日の食事に飽きたので、美味しいものを食べに行こうということに抵抗できる人も少ないと思います。「どうせ、人生は一回だ。それなら美味しい物を食べよう」と言う人もいます。それぞれが、すべて正しく、問題がないように 感じられるのです。 ところが、生物は「常時、不足状態」を前提にあらゆる感覚が作られているので、現代のように「欲しいだけ作り、したいだけする」というような社会を作りだすと、動物としての人間はなじむことができなくなると考えられます。 それが正常な感性を失わせ、破滅につながる発展をめざすという変なことになり、際限ない科学技術の進歩を追うようになったのでしょう。 際限もないものを追うこと、それは人間に何を与えるでしょうか? 『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊) 20231109   127