しあわせみんな 三号店

日本人は太古の昔から「しあわせみんな」という素晴らしい知恵をもって生きてきました

「自然エネルギー利用」というエゴ

自然エネルギー利用」というエゴ 二〇世紀は競争の時代でした。 競争の時代とは「自分が良ければ良い」ということが社会の正義でしたから、弱肉強食のシステムができあがったのです。その典型がクーラーです。 冷静に考えてみれば、真夏の気温が三〇℃もあるときに、自分のいる部屋だけを冷やして、「室外機」から熱風を隣の家に吹きつけ、お隣が「真夏の暖房」に苦しんでいるのを気がつかず、「クーラー」と呼んで平然としていた時代です。 ひと昔前なら、家族の誰かが「暑いからクーラーを買ってよ」とねだると、頑固親父が「この暑いのにお隣さんに熱風を吹きつけようってのか!」と叱ったでしょうが、今はそういうまともな人は滅びてしまいました。人当たりが良くニコニコはしていますが、お隣に熱風を吹きつけるのは平気という人が増えました。 「森の生活」はクーラーほどひどくはありませんが、質的には似ています。 環境を大事にし、自然に親しむというと何となく美しく、決して悪いことではないように思えます。しかし、森に住むということは自分だけがエネルギーを大量に使い、日本の自然という共通の財産も人の二〇倍も使っているのだ、という意識が必要だと思われます。 「環境」とは「みんなの生活環境」を意味しています。自分だけの環境なら、ゴミを出しても二酸化炭素を出しても良いのですから、もともと環境を問題にする必要はありません。そして「みんな」とは特定の人だけを対象にしていませんし、「生活」とは毎日、働くことが前提です。 「環境を守る」ということは、「みんなが少しずつ我慢して、日々の生活をするなかで、できるだけ人間らしい、快適な 生活が送れるようにしよう」ということなのです。だから、少し厳しい言い方ですが、「森の生活」というのは、実は環境を守ることとは正反対の行為で、「自分だけが良ければよい」という「ものの時代」の考え方で成立しているとも言えます。 自分だけが良ければよい、という基本的な考え方の上に立って環境問題に取り組むとき、わたしたちはよく間違いを犯します。それは「森の生活」だけではありません。例えば、「自然のエネルギーを利用する」というといかにも環境に良いことのようですが、これも錯覚の一つです。その例として、すでに長い歴史のある水力発電の例を引きましょう。 山から水がせせらぎとなって下り、やがて川となって、とうとうと流れ下る。まさに自然のダイナミックな活動です。そして、そのエネルギーは膨大だから山にダムをつくり、ダムの落差を利用して発電するのが良い、まさに「自然エネルギーの利用」と信じたのです。 「水力発電自然エネルギーの利用である。石炭火力のように煤煙も出ないし、枯渇のおそれもない」という意見にみんな納得しました。現代の風力発電に似ています。 しかし実際にダムをつくってみると、周辺の環境はすっかり破壊されました。特に、ダムの下流はそれまで、いつも豊かな水と小石が流れていたのに、人間の都合で流れたり流れなかったりするようになりました。 実は、ダムの下流に住んでいた魚や森、小石にも「水利権」や「環境権」があったのです。そして、人間がダムを建設するときに、「下流の**町の公聴会」とともに、「魚・森・小石の公聴会」を開かなければならなかった。それが「自然との共存」でした。 彼らは交通手段がなく、日本語がしゃべれなかったので、主張しなかっただけですが、傲慢な人間は他の生物や自然の権利を認めていませんでした。 じ や り しばらくして、ダムの下流の環境が破壊されたり砂利が不足してきたりして、人間にも都合が悪くなりました。そうすると、これはまずいということになり、ダムを改良し、時々、水を放流する設備をつけました。日本の代表的なダムである「黒部ダム」は一年に一度、ダムの横から大量の水を放流します。しかし、一年間もダムの底にたまっていた水は、落ち葉が腐って、硫化水素を大量に含んでいました。そして下流の川と富山湾の一部が死滅したのです。 もともと、自然は自然としての調和をなしています。そこに人間が入りこみ、人間の都合で自然のエネルギーやものを使うことは自然にとっては厳しいことです。決して、「自然のエネルギーだから自然にやさしい」ということはないのです。 つまり、水力発電は、「自然のエネルギーだから、自然を破壊する」、それでも人間にとってイヤな二酸化炭素や煤煙を出さないという点で、「自然に厳しく、人間に優しい発電方法」であったという意識、それが「環境の時代」「こころの時代」に求められるものなのでしょう。 最後に、「森の生活」を少し前向きに考えてみます。 わたしたちは常に環境からの影響を受けています。感受性の高い人にとっては東京という雑然とした環境から受けるメッセージに耐えることはできません。自分の体のなかにある感性とマッチしないのです。そこで、森を求めます。そして、豊かな自然が自分の精神を正常にしていくことを感じるのです。 しかし、環境はみんなのものであり、それは日常的な生活のなかにこそあるべきものです。そこで、都会では道路の舗装、ビル、ガードレール、エスカレーター、クーラー、乱立する汚い広告は誰もがイヤなはずですが、それでも競争時代から抜けださない限り、汚いものはなくなりません。 効率的に動く都会が「汚くても良い、汚くなる」と決まっているわけではありませんが、現代の都会が汚いのは「競争の時代」に「自分だけが良ければよい」という「部分的な正しさ」だけを追うなかで都市空間を作り上げた結果なのです。 土が見え、木々がしげり、花が咲き、綺麗な河畔にベンチがあり、車は見えないところを走り、みんな背広をやめて気軽でしゃれた服装で往来する、そんな都会を作ること、それが本当の「森の生活」と言えます。 だから「森の生活は大都会にある」のであり、それこそが「環境を改善できる、本当の森の生活」なのです。道路や生活の空間にすべて木々がなくなったので、屋上にわずかな庭園をつくり、そこに逃避しても、それはわたしたちの環境を守ることにはなりません。 普段の生活のなかに自然を求めることが最高の贅沢でしょう。 『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊) 20231021  64