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学習院大学を散策してきました

学習院大学を散策してきました 勉強会の催しで、雑司ヶ谷鬼子母神界隈から学習院大学構内を散策してきました。 朝方は、あいにくの小雨でしたが、傘をさすほどでもなく、午後は晴れ上がって、素敵な一日となりました。 鬼子母神界隈の話は、別にするとして、今、学習院大学史料館で、ある皇族の方の資料や様々な展示品の公開をされており、この機会にお時間が許せば、一度学習院大学の構内を散策するのも一興かと思いますので、そのための情報をアップします。 学習院大学史料館 学習院大学目白キャンパスマップ PDF











三笠宮崇仁親王に関する書籍が刊行され、その序文を参考までに掲載いたします。 以下引用 刊行にあたって―――「はじめに」より(抄) 本書は、三笠宮崇仁親王殿下の御生涯を歴史学的に位置づけるために、三笠宮家の全面的なご協力のもと、民間有志者を中心にして あつまった刊行委員会によって編纂・刊行された実録である。 三笠宮の生涯は、皇族や皇室をとりまく時代や環境によって、大きく戦前期と戦後期にわかれ、一身にして二生を経るような人生をあゆまれたといってよい。すなわち、戦前期は皇族軍人として、戦後期は学者皇族として、である。 崇仁親王は、一九一五(大正四)年一二月、大正天皇貞明皇后との第四皇子として生まれた。称号を「澄宮」と命名される。女子学習院幼稚園、さらには三人の兄宮と同じく学習院初等科・中等科に進まれる。一九二六年には大正天皇崩御、兄宮の裕仁親王天皇に即位する。皇族は陸海軍いずれかの軍人となることが求められるなか、崇仁親王は一九三二(昭和七)年に陸軍士官学校予科、さらに騎兵科へ進まれる。皇族軍人として、一将校として成長していく。そして、原隊(騎兵第一五聯隊)での兵教育は、崇仁親王の意識に決定的な影響を与える。一九三五年の御成年とともに三笠宮家を創立、さらに陸軍大学校時代の一九四一年に百合子妃殿下と結婚される。また、陸大時代には、戦史講義から歴史学へ明確に関心を持ち始める。陸大卒業後は、「若杉参謀」(秘匿名)として南京の支那派遣軍総司令部参謀に赴任、現地の実情に衝撃をうける。陸軍機甲本部附として敗戦をむかえたのは、満二九歳のときであった。 戦後期は、 日本国憲法象徴天皇制を採用したこととあいまって、皇室制度そのものが激変する。三笠宮もあらたな自由な環境を楽しむとともに、皇族としてそのままとどまるのかどうか苦悩される。 結局、戦後の皇族とは何かを自問自答しつつ、一九四七年四月に東京帝国大学文学部の研究生となり、古代オリエント史を専攻、学究の道をあゆみはじめる。忙しい公務のかたわら、学者として東京女子大学をはじめとする大学で教壇に立たれた。紀元節の復活が国会で議論されると、歴史家として反対の声をあげたことでも有名である。公刊された著書や論文、翻訳書なども数多い。多くの外国を訪問、国際親善につとめられた。 本書は、①三笠宮崇仁親王のあゆみを時代ごとに追った第一~九章、②百合子妃へのオーラルヒストリー( 第一〇章)、③歌や著作の一覧といったいわばデータ集にあたる附録の三部に分けられ、史料という典拠をゆるがせにしない歴史学の原則にのっとって編纂されている。特に、今まで研究等に使用されることが一度もなかった計一六二冊にものほる膨大な史料群である「御側日誌」を、三笠宮家の全面的なご理解・ご協力のもと、利用することができた。 さらに、本書のいちばんの特長は、第一〇章「百合子妃殿下御談話」であるかもしれない。これは、全一一回にものほるインタビューの記録である。このようなオーラルヒストリーは、近年、歴史学の手法としてますます高い評価をえるようになっている。このよう皇族の、そして女性のオーラルヒストリーは、二重の意味で貴重であるといえよう。 最後に、本書の編纂は、彬子女王(刊行委員長)・伊藤真実子氏(事務局長)のお二人の強力なリーダーシップと、その背後にある熱意がなければ実現しなかったものである。本書がひとりでも多くの人びとの手にとられることをつよく期待したい。 引用終