しあわせみんな 三号店

日本人は太古の昔から「しあわせみんな」という素晴らしい知恵をもって生きてきました

◎究極の飼育法

◎究極の飼育法 もし、命というものが、ただ毎日、食べることと心臓を動かすことだけで、動くことも喜ぶことも、悲しむことも、そして時には争うことも余計なことであれば、そうかもしれません。しかし、それでは生きていても、全く動かない「石」と違わないようにも感じられます。 いったい、生命とはどのようなものでしょうか。 火星に降りたったアメリカの宇宙船から送られてきた映像は、そこが死の世界であることを雄弁に物語っていました。赤茶けた土と小さな石ころ、茫漠たる大地と無味乾燥な空、すべては動かず、何も変わりません。 人類があんなにあこがれ、ロマンを感じた火星はつまらないものだったのです。生命がない世界、動くことも悲しみもない世界、それが無味乾燥であることを世界中の人が感じました。火星に比べて地球には生命が満ちあふれています。 地球の海には小さなプランクトンが無数に浮かび、小魚が群れになって泳いでいます。海面をきらきらと照らす太陽の光に大きな魚の影、そしてそれを追う漁船のエンジンの音。すべてが生命の輝きと営みであり、それは連綿として切れることがありません。 地球は、生命が躍動し、絶え間ない活動をする星です。死の世界、火星の表面にある岩のように、たった一つで永久にじっとしているのではありません。互いに依存し、互いに反発して生きています。そして、そんな躍動的な地球の生命の活動のなかにも、厳しい秩序があるのです。その秩序とは、「生命へのあこがれ」と「生命の尊厳」であり、それが支配する世界なのです。 どんなに美しい動物でも、そしてその動物の生活がどんなに穏やかに見えても、生きるためには他の命をいただかなければなりません。それは哀しいことでもありますが、同時に生命の躍動でもあります。そして、生命はそれをお互いに認め合って、精一杯生きることも認めてきたのです。 二〇世紀―――それはある意味で素晴らしい世紀でした。 それまで、人間は、四五〇万年前から、貧困にあえぎ、病気に苦しんできたのですが、それがほとんど解消されたのです。食糧は毎日、生産地から大型スーパーヘと流れ、とぎれることなく食卓に運ばれるようになりました。多くの薬や病気の治療法が研究され、突然の大病で生命を落とす危険も去りましたし、食欲がなければ食欲増進剤 、すこし精神的に不安定になったときには精神安定剤と、便利な薬も手軽に手にはいるようになったのです。 最近では、IT革命が進み、集団で仕事をしなくてもよくなってきました。インターネットは世界中の見知らぬ人と、いつも交信できるかわりに、何時でもその人との関係を不意になくすることもできるのです。仲間とケンカし、イヤな思いをすることも少なくなるでしょう。 わたしたちの周りには、知らないうちに「柵」が張り巡らされてきました。そして、目の前にはつぎつぎと美味しい料理が運ばれ、病気の危険も予防薬が消してくれます。 ただ、不満なのは体を動かせないので、運動不足になったり、なんとなく感激に浸れないことです。それでも栄養十分で、病気もしませんから、長生きはできます。 やがて、柵の後ろが開く日を待っていればよいようにも思える毎日です。 「究極の飼育法」は、できるだけ効率的に肉を生産する方法ですから、それ自体は決して間違っているわけではありません。その意味では「部分的には正しい」と言えます。 しかし、生命をもつものとしてのブタをそのようにして飼育していいのか、つまり「全体として正しいのか?」は疑問です。 わたしたちの身の周りに何が起こっているのか、現在のわたしたちは何に向かって努力をしているのか、それを「部分と全体」を意識しながら考えていきたいと思います。 『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊) 20231008