しあわせみんな 三号店

日本人は太古の昔から「しあわせみんな」という素晴らしい知恵をもって生きてきました

「分岐点を過ぎたものは価値が逆転する」ということを知る必要がある

世界で日本だけが国内に石油や石炭資源を持たない先進国です。だから、日本人が脚を使わず、歩く歩道やエスカレーターがなければ移動もできなくなった頃、石油が輸入できなくなれば、電気は貴重品となり、エスカレーターは動かなくなるでしょう。二階建てのスーパーなどは何とかなるでしょうが、東京の大深度の地下鉄や地下五階に設置された駅などは廃墟と化する可能性があります。 楽だ楽だと言ってエスカレーターを利用し、子供もそれに右へならえしていると、最後に、石油が輸入できなくなった頃、すでに脚は弱っていて使えず、石油が無いから電気も不足するという事態が予想されるのです。 この現象と未来予測を、もう少し深く考えてみますと、文化的生活には一つの「分岐点」があることが判ります。その分岐点とは「部分的な正しさ」が認められるものでも、その正しさが、ある量を超えると「全体としての正しさ」を失い、かえって害になるということです。 かえって害になるということを肝に銘じる必要があります。そして、わたしたちは、「分岐点」という概念を頭に入れ、次に「分岐点がどこにあるか」を判断し、さらに「分岐点を過ぎたものは価値が逆転する」ということを知る必要があるようです。 エスカレーターはすでに分岐点を越えました。シーバーガーが一所懸命になってエスカレーターを考えたことは、別に 問題はありませんでした。しかし、すでに、現在のわたしたちはエスカレーターで脚を使うエネルギーを倹約するのが適切ではなく、分岐点を越えているので、それを使わない方がよい、という領域に入っていると考えられます。そうなると、「エスカレーターの陰謀」で、環境を汚し、お金を使い、体を盗まれるようになります。もし、駅のエスカレーター を全廃し、ビルもエレベーターを使わずに四階までは階段を使うようにすると、脚は丈夫になり、成人病にはかかりにくくなり、寿命がのび、電気の使用量が減って発電所が少なくなり、運買が 安くなるので懐もあたたかくなります。 スマートで健康になり、長生きし、おまけにお金も貯まるのですから、こんなによいことはありません。重たいものを上にあげるということは「苦痛」のように感じられます。しかし、現在はすでに機械化が進み、ものを上にあげること自体はそれほどの問題ではありません。 それより、階段を上がるよりエスカレーターを使う方が楽、という「そのときだけは正しい」ことが「わたしたちの人生全体」としてみれば「苦痛」になる時代です。なお、社会には脚の弱いお年寄り、脚の自由が利かない方がおられます。その人たちのために不自由なく移動できるシステムは考えなければなりませんが、現在のようにほとんどの人がエスカレーターを利用するシステムは不要です。 しかし、これも「お酒の原理」と同じように、エスカレーターの製造会社が後に控えています。その会社はある程度の売り上げが必要ですし、それも毎年毎年、売り上げが増加することが必要です。だから、その会社に悪気がなくても、発展のために日本人の脚を奪おうとするでしょう。 これを防ぐには、私たち自身が「今までは階段を上がるのは苦痛だったけれど、最近は階段の方が楽だ。お金も貯まるし、健康にもなる」とこころの底から思うこと以外には解決しないでしょう。時代の変化がそうさせているのだ、と改めて言い聞かせるしかないのです。 わたしたちの子供がもっと悲惨な目にあいそうな気配です。それは、次のようなシナリオで進むでしょう。 ……建設産業が不調だからビルを建てたい。そうするとビルの残骸がでる。その残骸を埋め立てたりすると消費者がうるさい、そこで、「路盤材」としてリサイクルをしようとする。 その結果、日本の平野の土は一〇年でコンクリートで固められる。土のない生活は快適かもしれない。しかし、その頃、エネルギーがなくなり、食糧も輸入できなくなる。 食糧が輸入できないので畑を作らなければならないが、エスカレーターを使っていた脚はそのときすでに弱く筋肉も使えない。今さら、親がコンクリートで固めた大地を掘り返す力もない。 ……かくして、日本人は全滅する。 わたしたちは、少しは子供のことを考えなければならないのではないでしょうか? 著者は工学が専門なので、最近、心苦しく感じることが多くなりました。 今から三〇〇年ほど前、「真空の力」が発見され、それがきっかけになって蒸気機関が誕生しました。蒸気機関は、それまで人間や家畜の力にたよっていた活動を担うようになり、人間は辛い重労働から解放されたのです。それは人類に大きなメリットを与えましたし、その後、電動機やアクチュエーターが発達して、ますます人間は楽ができるようになったのです。エレベーターやエスカレーターばかりではなく、自動車、ヒコーキという直接的な輸送手段、そしてインターネットなどのITまでが、人間がより楽に生活ができるために作られてきました。 このような工学の発達は、人間から辛い筋肉労働を解放するかのように見えたのです。しかし、今やそれらが人間の機能と活動という意味での分岐点を越えていることは明らかです。すでに、屈強な若者にとってみれば、上腕の筋肉は電動機のためにほとんど使わなくなりました。かつて獲物を追った俊敏な脚力は自動車やエスカレーターに取ってかわられました。最近では、頭脳すらもコンビューターで置き換わり、ワープロが漢字を奪い、卓上計算機が九九を思い出しにくくしでいるのです。 さらに、机の上の小さなノートパソコンの前に立つと、旅行の計画でも、友達とのメールのやりとりも、すべてのことはすんでしまいます。このようにして工学の産物は一心に人間を廃人にしようとしているように感じられるのです。 著者はこれを「廃人工学」と呼んで、警鐘を鳴らしていますが、一度、弾みのついた勢いはなかなか止まることは難しいのです。 もちろん、人間を廃人にしてはいけないことについて誰も異論を唱えません。「人間らしい生活」や「自然とともに生きる」ことをめざします。その一方で、工学がエスカレーターをつくり、クーラーを生産し、一所懸命、「廃人工学」を進めることについても誰も異論を述 べないのです。 「楽になるのだからいいじゃないか」という部分的な正しさが優先するからです。 しかし、すでに、わたしたちはほとんどの体の機能を使うことなく毎日を過ごし、それが大きなストレスになっています。工学からいえば、廃人工学を一刻も早く止めなければなりませんし、それが期待できないのであれば、自分自身が、自分を守るしかありません。 『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊) 20231118 157