しあわせみんな 三号店

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「基礎科学」の有無が植民地化の別れ道

「基礎科学」の有無が植民地化の別れ道 1856年、江戸幕府は、後1863年に「開成所」と改称されて東京大学の前身ともなる「蕃書調所(ばんしよしらべしょ)」を設立しました。幕府直轄で、洋学教育ならびに洋書や外交文書の翻訳を行う洋学研究機関です。 先に触れたように、幕末から明治期は、大量のヨーロッパの書物が日本語に翻訳された時代でした。

欧米列強の植民地政策がアジア地域で展開される中、アジア諸国と日本の決定的な差は科学に対する取り組みにありました。開成所での研究を中心に、日本人が認識したのは基礎科学の重要性でした。 たとえば、当初は精錬学と呼ばれた化学の教官を担当していた竹原平次郎はフランスの化学者ギラルジの『化学入門』を翻訳し、物理学の教鞭を取っていた市川盛三郎はドイツから招聘した理化学者リッテルロ 述による『理化日記』をまとめました。 1870年に開設された大阪開成所では、オランダ人化学者ハラタマの同校での講 義録『金銀精分』が出版されました。 この他、医学関係で言えば、日本陸軍軍医で日本赤十字社社長を務めたことでも知られる石黒忠應(ただのり)が翻訳編集を務めた『化学訓蒙』が出版また増訂されるなど、当時の日本人の知識欲の旺盛さには深い敬意を表すばかりです。 江戸時代の杉田玄白の『解体新書』は有名ですが、慶應義塾出身の医学者・松山棟庵(とうあん)が1868年に翻訳出版したアメリカの医学者フリントの『窒扶斯(チフス)新論』、オランダの陸軍軍医バウドインが1870年に東京大学医学部の前身である大学東校で行った講義の記録『日講記聞』、1871年に出版された海軍病院で行われたイギリスの医師ホイーラーの解剖学講義の翻訳『講筵筆記 』など 、医学書の発刊が活発に行われました。 一方、日本の数学は著しい特異性を持っていました。理学や医学についてはそのすべてが欧米書籍の直訳による知識吸収でしたが、数学は江戸時代にすでに日本固有のものを持っていました。「読み書きそろばん」と言われる商算、和算が学問として成立していたのです。

1672年に京都の和算家・吉田光由が著した『塵劫記(じんこうき)』は西洋にもひけをとらない算術の名著です。関流七伝免許皆伝の和算家にして参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師・川北朝鄰(ともちか)が1872年に著した『洋算発微』は日本人が書いた洋学系の数学書物として敬意を表さなければなりません。 長崎の海軍伝習所出身で後に咸臨丸の航海長を務める和算家の小野友五郎が軍艦の操縦、ならびに航海に必要な西洋数学の習得が早かったのも、こうした日本の伝統が あるからです。 工業技術については細々と電信、鉄道、造船、造幣の輸入が進んでいました。1872年に機械工学の入門書である田代義矩が編んだ『図解機械事始』が出版されています。蒸気機関についての解説が水車の機械と並んで紹介されています。 日本は、極めて短期間で大量の西洋の書物を整理しました。こうした現象は、アジアはもちろん世界でも例がないほどです。 1886年、明治政府は「小学校令」を出し、小学校を尋常・高等の2段階に分けて各4年制とするとともに、尋常小学校の4年間を義務教育としました。元々勉強熱心で識字率が高かったということもありますが、識字率については明治期においても産業革命に成功したイギリスを大きく上回っていました。 東大工学部の前身である工部大学校の初代校長を務めた大鳥圭介1886年、今日では日本学士院となっている政府機関での演説で、次のように述べています。 「今日ヨーロッパは世界のすべての国々を支配して植民地にしているが、人口からするとアジアの方がヨーロッパより三倍程度多い。それなのにアジアがヨーロッパ人に蹂躙されているのはとりもなおさず教育が不足しているからだ。これからは日本人に教育を行い、国民がより学びヨーロッパを凌駕しなければいけない」 大鳥圭介は元幕臣として翻訳係を務め、函館政権の陸軍奉行の地位にありました。戊辰戦争後に新政府に出仕し、教育者として日本の工業技術の発展に尽くしたという人物です。 1886年は、帝国大学令が出されて高等教育機関の整備が佳境に入っていく年でした。明治初期から数多く登場してきていた私学は1918 年の大学令で大学として組織化され、日本の教育体制はさらに整っていきます。日本人がそもそも持っていた「もの」への関心、工学の才能、数学の才能の開花を促進していくのです。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060207 148