しあわせみんな 三号店

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「四国艦隊下関砲撃事件」と「薩英戦争」

「四国艦隊下関砲撃事件」と「薩英戦争」 幕末に欧米各国が日本に迫った「開国」とは、実質的に日本に植民地化を迫るものでした。 西洋列強の激しい嵐はすでにトルコ、インドから東アジア、中国に吹きすさんでいました。これは、まさに「蒸気の力」と「鉄の生産力」という工学がもたらした結果です。 元々攻撃的な狩猟民族であり、さらにはキリスト教の教義をバックボーンとするヨ ーロッパ人は、我々こそは世界を征服するに足る立派な民族だ、と確信していました。 アフリカは言うまでもなく、インド、インドネシアベトナム、中国、そしてフィリピンに至るまでが欧米の植民地と化しました。 そうした中、幸い日本は植民地とはなりませんでしたが、欧米列強との激しい衝突がたびたび起こっています。 1864年、「四国艦隊下関砲撃事件」と呼ばれる事件が起こります。四国とは、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの列強国のことです。 前年の1863年孝明天皇の強い要望で将軍徳川家茂が外国を排撃する攘夷実行を約束、幕府は軍事行動を予定していなかったものの、長州藩が現在の関門海峡である馬関海峡を通過するアメリカ、フランス、オランダの船に対して砲撃を実施しました。四国艦隊下関砲撃事件はその報復のために列強国が起こしたものです。

1863年薩摩藩大英帝国の間に「薩英戦争」も起こっています。下関における戦闘も薩英戦争も日本側が一方的にやられて終わったと教えられることが多いのですが、事実はまったく違います。 薩英戦争は、1862年の「生麦事件」をきっかけに起こりました。生麦事件とは、横浜港に近い武蔵国橘樹郡生麦村付近で薩摩藩島津茂久の父島津久光の行列に遭遇したイギリス人たちを供回りの藩士たちが斬り付け、1名が死亡し、2名が重傷を負った事件です。 イギリス人は馬に乗っていました。行列の先頭にいた薩摩藩士が馬を降りて道を譲るように伝えましたが意思疎通は叶わず、イギリス人を乗せた馬は行列の中を逆行しました。久光の乗る籠に近付いたところで殺傷事件は起きました。 生麦事件は国際問題となり、イギリス側は江戸幕府に対して損害賠償請求を行い、幕府は賠償金を支払いました。イギリスはさらに薩摩落に対して報復すべく、大英帝国艦隊を薩摩湾に派遣して砲撃し、薩英戦争が始まります。 清を相手にした1840年の「アヘン戦争」で、イギリス軍は大勝利を収めていました。3回ほどの海戦で、清軍の戦死者2000人に対して、イギリス軍は7、8人という圧倒的な結果でした。地方政府に過ぎない薩摩藩を相手とする戦争などは推して知るべしでした。 実際、戦力においては薩摩藩大英帝国艦隊では比較にならず、大砲の飛距離にも命中精度にも段違いの差がありました。

しかし、薩摩藩軍は強かったのです。砲撃を受けた鹿児島の街には損害がありましたが、藩主や住民の避難はほぽ完了しており、人的被害は少ないものでした。イギリス議会においては翌年1864年、鹿児島砲撃は一般市民を対象とした不当な戦闘行為であるとして問題となり、時のヴィクトリ ア女王が遺憾の意を表しています。薩摩藩軍は、大砲の射程は短いものの効率的な砲台の準備の下、砲撃を繰り返しました。その結果、薩摩側の被害も大きいものでしたが、イギリス側の被害のほうが大きく、指揮官を中心に多くの戦死者を出しました。 この結果は、イギリス側のみならず当時の世界を驚かせました。薩英戦争を経て、イギリスと薩摩藩は双方の関係を見直すこととなります。 幕藩体制封建制度です。封建制度とは土地の支配権を分与することによって主従関係を形成するという制度であり、日本では、天皇から征夷大将軍に任命された徳川将軍が諸藩を統治するという形をとっていました。つまり、薩摩藩は領地統治において独立している状態です。 イギリスは薩摩藩を評価し、中央の江戸幕府よりも緊密な関係づくりを図りました。西郷隆盛薩摩藩総大将として江戸に上り、幕臣勝海舟との間で江戸城無血開城を取り決めた偉業の背景にはこうした経緯があります。 四国艦隊下関砲撃事件では長州藩が、薩英戦争では薩摩藩が、欧米列強と直接相対しました。これによって長州・薩摩の両藩が国際情勢のリアリズムを中央の徳川幕府よりもはるかに深く知ることになり、明治維新を牽引していくことになるのです。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060206 144