しあわせみんな 三号店

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「平等」を軸とする日本人の国際意識

「平等」を軸とする日本人の国際意識 幕末から明治以降、日本の国防の脅威であり続けたロシアは、ヨーロッパからアジアにわたって広大な領土を保有する大帝国でした。とはいえその広大な領土のほとんどは寒冷地であり、温暖な気候の領土、年間を通して凍結しない港の獲得を国家戦略の一つとしていました。 1867年に当時の額面720万ドルでアメリカに売却するまで、アラスカを領土としていたこともあります。広大な国土は当時世界一でしたが、アラスカは本国まであまりにも遠く、毛皮猟などで開発を試みたものの採算がとれずに撤退しました。 南方の黒海沿岸への進出を図った結果、1853年、トルコとの間に「クリミア戦争」が勃発します。戦闘地域の規模を含めてたいへんな激戦となり、イギリス、フランスの介入を招いた結果、ロシアは敗北して南下政策は失敗に終わりました。 ロシアはアジア方面に軸足を移し、大陸の東側に不凍港を求め、南下政策を展開します。シベリアを征服し、1860年にロシア軍の前哨基地として日本海に面したウラジオストクという街を建設しました。ウラジオストクとはロシア語で「東方征服」という意味です。 冬には凍り付くことも多いウラジオストク不凍港とは言えず、ロシアは、南方の清の領土に触手を伸ばし始めます。満州の利権を獲得すべく、満州地域にシベリア鉄道敷設を計画します。 清からすれば外国の鉄道が通るわけですから国内の大問題となるのが常識ですが、この計画は実現します。当時の清は崩壊直前で内政は腐敗し、官僚たちは賄賂を渡され、ロシアのいいように扱われました。ロシアはさらなる南下を求め、満州鉄道の朝鮮半島への延長を計画します。 日清戦争における日本の勝利はロシアにとってたいへんな不都合でした。下関条約によって朝鮮は独立し、清の属国状態から主権国家の体裁となったからです。 しかし国際情勢というのは複雑で、朝鮮の独立は、かえって、国内に満州鉄道敷設を許可しようというロシアに有利な動きを生みます。朝鮮は王朝と両班(ヤンパン)という貴族階級が二重に支配する国家であり、経済的・実質的な支配層である両班の勢力がロシアの戦略にのったのです。 鉄道はおろか軍港まで造らせようという話になりました。幕末以来のロシアの脅威がいよいよ眼前に迫ることになった日本は国防のために日露戦争を覚悟せざるをえませんでした。

日露戦争の勝利後、日本は韓国を併合しますが、ソウルの帝国大学設立をはじめとする同化政策による統治を行います。 朝鮮人も日本人も平等な制度の下で共に発展してこそ大日本帝国の国防は実現するという考え方です。 帝国大学として最初に成立したのは1886年東京帝国大学です。1897年に京都帝国大学、1907年に東北帝国大学、1911年に九州帝国大学、1918年に北海道帝国大学が設置されました。 そして、1924年に朝鮮に京城帝国大学、1928年に台湾に台北帝国大学が設立されました。 北海道大学の次は大阪、名古屋に帝国大学が設立される予定でしたが、朝鮮と台湾での設立を急いで後送りとなりました(大阪帝国大学は1931年設立。名古屋帝国大学は1939年設立)。 こうしたことは、ヨーロッパ型の植民地政策ではなされるはずがありません。日本のアジア諸地域への政策には、信念と配慮というものがあったのです。 清の属国だった時代、朝鮮では、王侯とそれを取り巻く貴族層である両班が国を支 配していました。属国であり、かつ国内に 強固な支配者がいるという構図の国であり、国民の生活水準はたいへんに低いものでした。学校制度もなければ国民の識字率も低く、鉄道などのインフラも整備されず、郵便事情も悪く、産業も振興されず、農業生産量も低く、国民は貧しさにあえぐ生活を強いられていました。 韓国併合後、日本は朝鮮に対して、鉄道の敷設、病院の設置、初等学校制度の確立など社会インフラの整備に励みました。日本の統治期間に朝鮮半島の人口は2倍以上になり、識字率も飛躍的に向上したのです。ただし、こうした事実は、作為的であるかどうかは別にして、朝鮮半島の人々にはあまり理解されていないようです。 一方、同様の同化政策の下で統治されていた台湾には、日本の統治時代を好意的に受け止めている人々が多くいらっしゃいます。 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060210 159