しあわせみんな 三号店

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あとがき 実はとても科学的な日本文明 科学とはどういうものか

あとがき 実はとても科学的な日本文明 科学とはどういうものか 科学で行われている作業は、実験や観測から生まれる実証的なデータ(事実)の集積です。一つひとつのデータを誰もが共有できるように 集積します。 そして誰もが確認できるデータに基づいてさらなる実験や観測をし、事実関係を実証的に次々と積み重ねて先に進んでいきます。 新しい計測器が発明され今まで困難だったデータを読み取ることができれば、それまで積み上げてきた事実が一挙に逆転されるかもしれません。それは仕方がないことなのです。 私たち科学者は、大きな木の根本でごそごそと動きながら少しでも上にあがろうとしている小さな虫のような存在です。試行錯誤しながら少しでも大木の上のほうに行きたいと懸命に模索しているのです。 科学とはどういうものか、もう少しわかりやすく説明してみましょう。 たとえば「天動説」。天動説というのは「地球が宇宙の中心にあり、太陽は地球の周りを回っている」という説です。古代ギリシアやローマ、中世ヨーロッパなどでは常識的な宇宙論でした。 天動説の面白いところは、単に自分の目だけで観測しているのであれば、「誰にでもそう見える」ということです。したがって、けっして間違いではありません。その時点では「科学的に正しい」と言えるのです。 自分が地上に立って空を見上げれば、どう見ても太陽は東から上がり、西に沈んでいきます。夜の星を観察しても、少し違う動きをするものもありますが、同じことです。事実として、地球の大地が動かずに太陽や月や星が動いているように見える。 しかし、観察データが積み重なって分析が細かくなると、さまざまな解釈が生まれてきます。 天動説が華やかなりし頃、ガリレオ・ガリレイがオランダで天体望遠鏡を手に入れ観測しました。すると、天動説に疑問を感じるようになりました。 「惑星の動きがどうもおかしい。なぜだろう? 観測データを整理して考えてみると本当は太陽が中心にあって地球がその周りを回っているのではないか?」。やがて、ニコラウス・コペルニクスが提唱してガリレオが支持した「地動説」こそが正しいという流れになってきます。 こうした検証の積み重ねが科学の進歩です。 しかし、キリスト教会の人々は「聖書に書かれていることとは違う」と言って信じませんでした。ガリレオは宗教裁判にかけられ、地動説を支持した修道士が火あぶりになることもありました。

科学に限らず学問は、人間が観察し、人間が考えて進むものですから、当然間違いがあります。 ですから、「ほとんどの学問は間違っているかもしれない。現時点ではこれが正しいとしているに過ぎない」と自覚する必要があります。人間は、自らが思うほど知恵があるわけではありません。 望遠鏡ができたのは16世紀末です。望遠鏡を発明していなければ人類はまだ天動説のままだった、ということも考えられるのです。 現代では計測機器の開発が多様に進み、ガリレオの時代よりもさまざまなことがわかるようになってきました。しかし、ありとあらゆるものがわかっているというわけではありません。 21世紀になっても、まだまだ科学的にわからないことはたくさんあります。 たとえば、「未確認飛行物体」や「死後の世界」は今のところは科学的に観測できていませんから「ない」ということになっています。ただし、将来それらを計測できる機器が発明され、データが蓄積されれば「ある」となる可能性はゼロではないのです * 本書で分析してきたように、日本文明は自然を観察し続け、自然から学び続けてきました。 縄文の時代から数万年をかけてこっこっとデータを積み上げ、日本人は試行錯誤しながら文明をアップデートしてきたのです。 箪者は科学者の一人として、これこそが日本文明の極めて尊敬すべき点だと考えています。 世界に類を見ない「かけがえのない国」がここにあるのです。 令和五年睦月 武田 邦彦 『かけがえのない国――誇り高き日本文明』 武田邦彦 ((株)MND令和5年発行)より R060223 206