「抽象概念」を神とした日本人 この本は特に日本文化を述べるものではありませんが、「科学的思考」をより理解するためにも最低限度、日本文化に対する錯覚を直しておくのは大切なことだと考えます。 その意味で、もう 一つ挙げておかなければならないのが「日本の宗教 」についてです。 信教の自由とか、一神教や多神教といったことに対する考え方というのは、日本と日本以外の国ではまったく違います。 日本人の考え方の根本には、先ほど述べたように「自然をじっくりと観察したら、どうも自分たちは自然の中から生まれてきたものであり、自然も人間も同じな のだ」ということがあります。 あたりまえのことなのですが、太陽がなければ、地球上の生物は生まれない。山や川や海がなければ、作物も収穫できないし獲物もとれない。だから太陽はもちろん、山や川や海は私たちをつくったものであり、動物もそうで植物もそうである。 そういう考えから、まず「自然」全体を、自分たちをつくったものということで神様として位置づけました。そのために「お天道様の下ではウソをつかない」というような考えも生まれたのです。 つまり、日本人にとってお天道様は神様です。そして、山も神様ですから山のふもとに神社をつくって山の神様が下りてくるというように考えます。海にも岩があったらそこにしめ縄を張って、海の神様に感謝する。そのようにすべての自然が日本の神様なのです。 もう一つの日本の神様は「ご先祖様」です。 そうした考えが生まれたのは縄文時代ではないかと言われています。その時代にはまだ遺伝という考え方はありませんでしたが、自分には父母という2人の人間がいるということはよくわかります。 その父母を生んでくれたおじいちゃんおばあちゃんというのは父母でそれぞれ2人ずつの計4人いる。この4人がいなければ自分は生まれない。そうやって600年ぐらいさかのぼっていくと、自分をつくってくれた人はだいたい100万人ぐらいいるということになります。100万人となると、自分も含めて見渡す限りの人々よりも人数が多く、そうなると自分とか周りの人たちをつくったのは共通の親なのだろうという考えに至るわけです。 私たちはみな兄弟であり、100万人の先祖が自分たちをつくってくれたのだと考える。そうしてご先祖様をみんなで神様として崇めようということになりました。 このように日本は自然とご先祖様、この2つを神としてきたわけです。 だから、たとえばお釈迦様に対してもまったく拒否感はありません。お釈迦様もご先祖様の一人ですから当然崇拝するわけです。 それはイエス・キリストでも同じことです。キリスト教式で結婚式を挙げて、イエス・キリストの前で愛を誓う。これはこれで別に構わない。イエス・キリストもご先祖様の一人で神様なのですから。 お正月になると神社へ初詣に行くのも構わない。お彼岸のお墓参りでお寺へ行ってお坊さんの説教を聞くのも構わない。クリスマスだハロウィンだといって海外の風習を真似るのも構わない。 日本にとっての宗教というのは、一神教でも多神教でもないのです。日本のことを多神教という人もいますが、それは日本のような宗教の形がなかったヨーロッパ式の分類に過ぎません。 日本の宗教は数が多数なのではなくて、自然とご先祖様という「抽象概念」を神様としているのです。 『フェイクニュースを見破る 武器としての理系思考』武田邦彦 (ビジネス社刊) R060720 P220