しあわせみんな 三号店

日本人は太古の昔から「しあわせみんな」という素晴らしい知恵をもって生きてきました

短時間の移動では座らないことでカルシウムの損失を防ぎ、長い旅では多少贅沢でも悠然と旅を楽しもうというわけ

短時間の移動では座らないことでカルシウムの損失を防ぎ、長い旅では多少贅沢でも悠然と旅を楽しもうというわけ ところが、著者も尿中からカルシウムが損失するバークヘッド博士の実験結果を知り、座りたい気持ちが少なくなりました。それまで山手線に乗るとまず座席が空いているかと素早く車内に目を配り、座席が空いていると、あまり品がないと感じられないように空いた座席のそばに移動して座ったものでした。ところが一日三時間以上立っていなければ、と思うと仕事が終わって山手線に乗っている時間は「立つことができる時間」としてとても貴重に感じられます。こんなときは座るのは損だと思うようになりました。 かくして「座席が空いていても立つ」ことを実行してみると、別にそれによって疲労が倍になることもないし、腰も痛くはなりません。「座れれば座りたい」という代わりに「座ってもよいし、座らなくてもよい」と思うと気分がゆったりしてきます。電車を待っているときでもこれまでは「次の電車は混んでるかな? 座れるかな?」と心配したり、「前の方が空いているか、後ろが良いかな」などと考えていましたが、今はのんびりしたものです。結果的には座れるかどうか心配していたときよりかえって疲れないように思いますし、待っているときにあれこれ考えないので、時間の過ごし方も贅沢になってきた感じがします。 そこで、わたしは電車や列車に乗るときには、 ① 近いところに行くときには、もののはずみで座る以外は、原則として座らない、 ② 新幹線のような遠いところに行くときには、反対に、原則として指定席をとる、というようにしています。つまり、「短い時間は立っている」けれど、「長い時間は指定席をとる」という原則です。短時間の移動では座らないことでカルシウムの損失を防ぎ、長い旅では多少贅沢でも悠然と旅を楽しもうというわけです。 著者は大学で教鞭を執っておりますが、大学の先生は歳をとっても元気で若々しい人が多いようです。原因は若い学生と一緒にいるからと言われますが、先生という職業は立って講義をすることが多く、それが理由の一つかもしれません。たしかに九〇分の講義を二回続けたりすると疋が少し痛くなります。その痛いのが体には良いのでしょう。 昔から列車には「指定席券」というのがあり、お金を出せば席に座ることを保証してくれます。 お金を出すと座ることができ、お金を出さないと座れるかどうか判らないということを何回か経験しているので、そのうち「座るのは得、立つのは損」と思うようになり、それが固定観念として頭に入ってしまいます。それは錯覚というものです。 ドイツの小話に幸福をテーマにしたものがあります。 あるタベ、一日の野良仕事を終わった農夫が、のんびりと山を見ながら家の前の小さなベンチに腰をかけています。夕日が赤く空を染め、その家の前を横切っている小さな道を通って、これも夕焼けのなかで家路に急ぐ羊の群れが小さく土煙を上げて通っていきます。 農夫の手にはワイングラスが握られ、さきほどからそよ風が、ワインと夕日で赤くなった農夫の頬をなでています。 環境は、周囲の豊かな自然と、体に備わった機能を適切に使った自分との調和でなりたっているのでしょう。そして、豊かになるというのはまさにそのことであり、環境を大切にし、改善するというのも、そういうことです。わたしたちはこの小話の時代より進歩しています。やろうと思えば、この話のような環境をつくることができるのです。 まず川を綺麗にするために、下水を万全にし、道路の舗装や車の使用を最小限にし、舗装をやめ、クーラーを止めて夏の温度を下げ、木々を植えることはわたしたちの力でできるのです。そして、ゆったりと綺麗な花の咲いている川辺を好きな人や気の合う仲間と散歩をするたちの頬には、あの農夫が感じた夕日の僅かな暖かさを感じることができるでしょう。 わたしたちは、ゴミのなかの生活、忙しい毎日、ぎすぎすした人間関係、そして空虚に過ぎる時間のなかで、政府のいうような三パーセントの経済成長を願って生きているわけではありません。わたしたちは、それほど「物質」のような存在ではなく、また、社会が経済的に成長しなければならないわけでもありません。経済成長は本来的な目的を達成するための手段であり、わたしたちは、より良い環境と生活をめざして、社会を発展させてきたのですから。 『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊) 20231121 165