しあわせみんな 三号店

日本人は太古の昔から「しあわせみんな」という素晴らしい知恵をもって生きてきました

最近 、すぶ濡れになったことがありますか

最近 、すぶ濡れになったことがありますか 最後に、もう一例。 駿雨(しゅうう)、すでに聞き慣れない言葉の一つになりつつありますが、それまで曇りがちではあってもそれほど雨の心配はないと思っていたら、一転、にわかにかき曇り、たちまちのうちに激しい雨に見舞われることがあります。そんなとき、昔はまず走り出し、軒下に走り込みました。そしてしばらく雨宿りを楽しみます。突然のことでもあり、軒下には見ず知らずの人ですが、それでも「同じ不幸」を背負った運命の人が集まるのですから、話も弾み、ひとときの時間を過ごすことができます。 ともかく、いつ雨がやむかと聞かれてもいつと答えることはできませんが、そうかといって長い時間ではないことを経験的に知っているというきわめてアナログ的な時間を過ごし、もし、同じ軒下に見知らぬ人がいたら、互いにひととき の不幸を嘆き、短い間の人間関係を楽しむことができます。 最近、突然の雨に遭うことも少なくなりました。雨傘が軽くなり、建物には「軒先」がなくなり、そして、天気予報が当たるようになって、雨に濡れるチャンスは失われました。 そこで、時間を豊かにする方法を紹介します。 まず、携帯用の雨傘を持たないこと。雨傘を持っていないと、不意の駿雨におろおろします。特に歩いている途中に降られたりすると、駆け足でどこかに駆け込もうとするのですが、それもできず、徐々に雨足が強くなるのを恨めしく思っている間に、お構いなしに土砂降りになり、ついにはずぶ濡れになっていく自分を実感しつつ、やけになって歩き始めます。 「しょうがないな」 とあきらめて、わざとゆっくり歩く自分。



特に、秋の寒い日、背広などをキチンと着込んでいるときが一番です。雨は少しもやむ気配がなく、頭や肩、そして足下だけではなく、全身、濡れ鼠になってきます。そのうち、靴がぐずぐずになり歩くごとに音をたてはじめます。 ようやく家にたどり着き、「ひどい目に遭った!」と叫びながら玄関先で靴を脱ぎ、背広を取り、下着一枚になって、ぶるぶる震えながら風呂のガスをつけます。体はシンから冷え、せっかく買ったばかりの背広は無惨な姿です。 でも、そこまでが不幸です。シンから冷えた体は待ちに待った風呂に飛び込んだ途端に、じんわりと暖まっていきます。あまりに体が冷えていて熱さの判らないお湯に囲まれて、まず冷え切った手足がしびれ、それが徐々にほぐされていきます。五分後には小さい風呂の中で思い切り手足を伸ばし、そして生き返るのです。 もちろん、背広や靴の被害は取り戻せません。それでも、その一日は大わらわ、濡れたものを片づけたり、愚痴を言ったり、寝る時間まで十分に「ずぶ濡れ事件」を楽しむことができます。 この「ずぶ濡れ事件」は翌日の会社でも、一週間あとの飲み会でも楽しい話題になり、やがて懐かしい記憶に変わります。 現代の社会は凹凸が少なくなりました。危険は忍び寄ることはあっても荒々しくはありません。日々、計画された通りに進み、時間の過ぎ方は平坦です。時間が平坦になると、それは記憶から遠ざかり、人生を短くします。「ずぶ濡れ」は現代の日本でできる感動の時間なのです。 そして、著者にとっての「ずぶ濡れ」は別の意味もあります。すでに、著者は遠い昔に学校を卒業し、若い頃いくらかあった波風も収まって、一見して幸福で世間的には尊敬される地位にもあります。そんなわたしにとっては時に無惨な思いをし、悔しくもあり、そして惨めになることは、それを噛みしめる楽しみでもあります。 我慢して冷たい雨の中を歩いているとき、自分のこころがだんだん、謙虚になっていくのを感じます。近くに命令ができる人がいれば「傘を持ってこい」と言うかもしれません。家族が近くにいれば、「早く風呂を沸かしておけ」と怒鳴るかもしれないのです。でも、雨と自然は何ともなりません。 その時は、じっと、耐えて家にたどり着くこと、それだけがわたしにできることなのです。現代のわたしたちは、恐れるものも少なくなりました。山が怒り、空が割れ、天地が裂ける恐怖はありません。闇夜が自分にそっと近寄り、突然、包み込まれてどこかに持って行かれることも考えられなくなりました。自然からの恐怖はなく、盗賊や大火、そして戦争の恐れもほとんどない時代です。 それはそれで人間社会の進歩ですが、同時にわたしたちの人生を無味乾燥にする喋境も作りました。それが時間の過ぎるのを速くしているように感じられます。苦しく、汗をかき、惨めになり、そして感動する、そういう人生を自ら作っていく時代であると思うのです。 『日本社会を不幸にするエコロジー幻想』 武田邦彦著 (青春出版社 平成13(2001)年刊) 20231128 184